1932年のグランプリ・シーズン はAIACRヨーロッパ・ドライバーズ選手権のタイトルが懸けられた二回目のグランプリ・シーズンである。アルファコルセのタツィオ・ヌヴォラーリがヨーロッパ・チャンピオンに輝いた。ヌヴォラーリは3つのヨーロッパ選手権グランプリのうち2つに勝利した。選手権は5時間から10時間の長時間レースで構成された。
1932年シーズンはフォーミュラ・リブレの規格で争われる最後のヨーロッパ選手権となった。昨年に引き続きブガッティとアルファロメオの対決がシーズンの焦点となったが、6月のイタリアグランプリでアルファロメオが投入した新型アルファロメオP3(英語版)の前にブガッティ・タイプ51(英語版)は競争力を失った。選手権はアルファロメオの独壇場となり、この年開催された3つのグラン・エプルーヴを全勝した。ヌヴォラーリがイタリアグランプリとフランスグランプリを制し、ヨーロッパ・チャンピオンとなった。 一方で、悪化の一途をたどるドイツの経済状況はメルセデスのレース活動を中断に追い込んだ。前年にドイツグランプリをメルセデスで制したカラツィオラは1932年シーズンを前にアルファロメオに加入したが、カンパーリ、ヌヴォラーリらイタリア人ドライバーの反対に遭いファクトリーチームの一員としては認められなかった。[1] カラツィオラは当初、ドイツのナショナルカラーである白のアルファロメオをドライブすることになった。この状況はモナコグランプリでカラツィオラがヌヴォラーリに優勝を譲ることで終わりを告げた。[2]
黄色の背景はグラン・エプルーヴ
| 色 | 結果 | ポイント | 金色 | 勝者 | 1 | 銀色 | 2位 | 2 | 銅色 | 3位 | 3 | 緑 | レースの75%以上を消化 | 4 | 青 | レースの50%以上 75%未満を消化 | 5 | 紫 | レースの25%以上 50%未満を消化 | 6 | 赤 | レースの25%未満を消化 | 7 | 黒 | 失格 | 8 | 白 | 参加せず | 8 | |
- ^ ノイバウア, アルフレッド 著、橋本茂春 訳『スピードこそ我が命』荒地出版社、1968年、45頁。
- ^ カラツィオラ, ルドルフ 著、高斎正 訳『カラツィオラ自伝』二玄社、1969年、55-58頁。