惟康親王 - 维基百科,自由的百科全书
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惟康親王 | |||||
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鎌倉幕府第7代征夷大將軍 | |||||
在職 | 1266年8月25日–1289年9月29日 | ||||
前任 | 宗尊親王 | ||||
繼任 | 久明親王 | ||||
天皇 | 龜山天皇 後宇多天皇 伏見天皇 | ||||
執權 | 北條政村 北條時宗 北條貞時 | ||||
出生 | 日本鎌倉 | 1264年5月26日||||
逝世 | 1326年11月25日 日本平安京 | (62歲)||||
子嗣 | 仁澄、增惠、聖惠、增珍、康忠、久明親王室 | ||||
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父親 | 宗尊親王 | ||||
母親 | 近衛宰子 | ||||
簽名 |
日語寫法 | |
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日語原文 | 惟康親王 |
假名 | これやすしんのう |
平文式罗马字 | Koreyasu Shinnō |
惟康親王(日语:惟康親王/これやすしんのう Koreyasu Shinnō,1264年5月26日—1326年11月25日)是日本鎌倉幕府第七代征夷大將軍。他是六代將軍宗尊親王的嫡男,母親是攝政近衛兼經之女宰子。
生平
[编辑]生於相模國鎌倉。1266年7月,隨著宗尊親王被廢送還京都,才三歲便就任將軍。起初還沒有降为臣籍時被稱為「惟康王」,就任將軍後降为臣籍,賜源姓,改名「源惟康」(後嵯峨源氏)。1289年9月,北條氏因其任將軍太久,希望讓久明親王就任,於是他被解除將軍之職而回到京都。在這之前他為被放逐而做準備,以幕府的名义請求希望能回復皇籍,於是朝廷方面册封其为親王,他改名「惟康親王」。根據《增鏡》的記載,他被很隨便的用「竹網編成的轎子」送回去。同年12月出家。1326年逝世,享年六十二歲。
官職位階履歷
[编辑]- 文永3年(1266年) 從四位下。征夷大將軍。此時稱為惟康王。
- 文永7年(1270年) 賜姓源氏,稱為源惟康。正三位。左近衛中將。
- 文永8年(1271年) 兼任尾張權守。
- 文永9年(1272年) 從二位。
- 建治2年(1276年) 兼任讚岐權守。替換尾張權守。
- 弘安2年(1279年) 正二位。
- 弘安10年(1287年) 中納言。右近衛大將。之後辭去大將。再後來立親王。二品。稱為惟康親王。
- 正應2年(1289年) 辭去征夷大將軍。
家族
[编辑](88)後嵯峨天皇 | 宗尊親王 (鎌倉将軍6) | 惟康親王 (鎌倉将軍7) | 〔北朝〕 | (北朝1)光嚴天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(93)後伏見天皇 | (北朝2)光明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【持明院統】 (89)後深草天皇 | (92)伏見天皇 | (95)花園天皇 | 直仁親王 (皇太子) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尊圓法親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
久明親王 (鎌倉将軍8) | 守邦親王 (鎌倉将軍9) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【大覺寺統】 (90)龟山天皇 | (91)後宇多天皇 | (94)後二条天皇 | 邦良親王 (皇太子) | 康仁親王 (皇太子) | 〔木寺宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔南朝〕 | (96)後醍醐天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟康親王 | ||
军职 | ||
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前任: 宗尊親王 | 征夷大將軍 1266年8月25日-1289年9月29日 | 繼任: 久明親王 |