ベトナム戦争
ベトナム戦争(べとなむせんそう、ベトナム語:Chiến tranh Việt Nam / 戰爭越南、英語: Vietnam War)は、当時南北に分断されていたベトナムで社会主義陣営の北ベトナム(ベトナム民主共和国)と資本主義陣営の南ベトナム(ベトナム共和国)との間で勃発した戦争であり、冷戦中に起こったアメリカ合衆国とソビエト連邦の代理戦争とされる。経済力・物量の差から「象と蟻」の戦いと揶揄された。
建国当初よりベトナム南北両国は対立関係にあり、南ベトナム国内では北ベトナムに支援された反政府組織である南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)が活動して軍や警察などと衝突していた。南ベトナムの同盟国であるアメリカ合衆国(アメリカ)は軍事顧問を送り込むなどして以前より南ベトナムを援助していたが、1964年8月のトンキン湾事件を契機として全面的な軍事介入を開始した。しかしアメリカ軍は北ベトナム軍や解放戦線側によるゲリラ戦を相手に苦戦し、最終的に和平協定を結んでこの戦争から撤退することとなった。戦争はその後、1975年4月30日に北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させるまで継続した。
また、この戦争に参戦したのは南北ベトナムや解放戦線、アメリカだけでない。それはそれぞれに味方し支援する同盟国であり、それらの国々は戦争初期から同盟国軍として参戦している。具体的には北ベトナムに味方したのは同じ東側諸国に属する社会主義国であり、軍事顧問を派遣したソビエト連邦(ソ連)や防空作戦部隊や工兵部隊を派遣した中華人民共和国(中国)、空軍のパイロットを派遣した朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)などである[2]。また、南ベトナムに味方したのは同じく西側諸国に属する資本主義国であり、28,000人から4,5000人の国軍部隊や50,000の役務要員を派遣した大韓民国(韓国)や3,000人の部隊を派遣したオーストラリア、それぞれ2,000人の部隊を派遣したタイ王国やフィリピン、戦車部隊や医師など200人を派遣したニュージーランドなどであり、間接的な協力では心理戦や農業部門で関与した中華民国(台湾)や医療関係で協力した日本なども挙げられる[3]。そして両陣営の兵士や戦士、民間人ゲリラなどが泥沼の戦いを行ったため多くの人々が犠牲となる大変悲惨な結果となった。その後1973年にパリ和平協定が締結されアメリカ軍などは撤退。その後も戦闘は続き、結果的に北ベトナム側の勝利に終わり南ベトナムはサイゴン陥落によって無条件降伏し政権は崩壊した。なお、この戦争ではベトナムだけでなく、周辺諸国であるラオスやカンボジアにも戦火は拡大しており、それぞれラオスではラオス王国とパテート・ラーオが戦い、カンボジアではクメール共和国とカンボジア王国・クメール・ルージュの連合軍が戦い、こちらでも社会主義国側の勝利に終わっているが、やはり多くの人々が被害を受けている。これらはそれぞれラオス内戦、カンボジア内戦と呼ばれており、結局インドシナ半島の3カ国は全て社会主義の国となった[4]。
概要
[編集]この紛争は、第二次世界大戦後にフランスと共産党率いるベトミンとの間で起きた第一次インドシナ戦争に端を発する[5][注 1]。1954年にフランスがディエンビエンフーの戦いで大敗し、ジュネーブ協定によって最終的にインドシナ半島から撤退した後、アメリカは南ベトナム国家への財政的・軍事的支援を開始した。北ベトナムの指示を受けた南ベトナムの共同戦線であるヴィエト・ゾン(Front national de libération du Sud-Viêt Nam、NLF (the National Liberation Front)、南ベトナム解放民族戦線。ベトナム共産党に因みベトコンとも呼ばれる)は、南部でゲリラ戦を開始した。北ベトナムは1950年代半ば、反乱軍を支援するためにラオスにも侵攻し、ホーチミン・ルートを確立してベトコンを補給・強化していた[6]。アメリカの関与はジョン・F・ケネディ大統領の下でMAAGプログラムを通じてエスカレートし、1959年には1000人弱だった軍事顧問が1964年には2万3000人に達した[7]。1963年までに、北ベトナムは4万人の兵士を南ベトナムに派遣していた[6]。
1964年8月初旬のトンキン湾事件では、アメリカの駆逐艦が北ベトナムの高速攻撃艇から魚雷攻撃を受けたとされた。これを受けて、アメリカ議会はトンキン湾決議を可決し、リンドン・B・ジョンソン大統領にベトナムにおけるアメリカ軍のプレゼンスを高める広範な権限を与えた。ジョンソンは、初めて戦闘部隊の派遣を命じ、兵力を18万4,000人に増強した[8]。ベトナム人民軍(PAVN、北ベトナム軍(NVA)とも呼ばれる)は、米軍および南ベトナム軍との間で通常の戦争を行った。進展は無かったが、米国は大幅な軍備増強を続けた。戦争の立役者の一人であるロバート・マクナマラ国防長官は、1966年末には勝利を疑うようになっていた。米軍と南ベトナム軍は、航空優勢と圧倒的な火力を頼りに、地上部隊、砲兵隊、空爆を伴う索敵・破壊作戦を展開した。また、アメリカは北ベトナムやラオスに対して大規模な戦略爆撃を行った。北ベトナムは、ソ連と中華人民共和国の支援を受けていた[9]。1967年にはタムクアンの戦いが南ベトナムで起こっている。
1968年のテト攻勢でベトコンと北ベトナム軍が大規模な攻勢をかけたことで、アメリカ国内の戦争に対する支持が薄れ始めた。テトの後、放置されていたベトナム共和国陸軍(ARVN)は、アメリカのドクトリンを手本に拡大していった。テト攻勢とそれに続く1968年のアメリカ軍・ベトナム共和国陸軍の作戦で、ベトコンは5万人以上の兵士を失うという大損害を被った。 CIAのフェニックス作戦は、ベトコンの人員と能力を更に低下させた。この年の終わりまでに、ベトコンの反乱軍は南ベトナムに殆ど支配地域を持たなくなり、1969年には徴兵が80%以上も減少し、それはゲリラ活動が激減したことを意味し、北からの北ベトナム軍正規兵の動員を増やす必要があった[10]。1969年、北ベトナムは南ベトナムに暫定革命政府を宣言し、減少したベトコンに国際的な地位を与えようとしたが、北ベトナム軍がより通常の複合武器戦を開始したため、それ以降、南部ゲリラは脇に追いやられるようになった。1970年には、南部の共産党軍の70%以上が北部人となり、南部人を主体としたベトコン部隊は存在しなくなった[11]。活動は国境を越えて行われた。北ベトナムは早くからラオスを補給路として利用していたが、1967年からはカンボジアも利用していた。カンボジアを経由するルートは1969年からアメリカの爆撃を受け始めたが、ラオスのルートは1964年から激しい爆撃を受けていた。カンボジア国民議会が君主ノロドム・シハヌークを退陣させたことにより、クメール・ルージュの要請を受けた北ベトナム軍の侵攻を受け、カンボジア内戦が激化し、米軍・ベトナム共和国陸軍の反攻(カンボジア作戦)を受けることになった。
1969年、リチャード・ニクソン大統領の当選を受けて、「ベトナミゼーション」政策が開始された。この政策により、紛争は拡大したベトナム共和国陸軍によって戦われることになり、米軍は国内の反発や徴兵の減少により、ますます士気が低下していったのである。米軍の地上部隊は1972年初めまでにほぼ撤退し、支援は航空支援、砲兵支援、顧問、物資輸送に限られていた。ベトナム共和国陸軍は、米国の支援に支えられ、1972年のイースター攻防戦で、最初で最大の機械化された北ベトナム軍の攻勢を阻止した。この攻勢は双方に大きな犠牲をもたらし、北ベトナム軍は南ベトナムを制圧することが出来なかったが、ベトナム共和国陸軍自身も全ての領土を奪還することが出来ず、その軍事的状況は厳しいものであった。1973年1月のパリ協定により、米軍は全て撤退し、8月15日に米議会で可決されたケース・チャーチ修正条項により、米軍の直接的な関与は正式に終了した[12]。和平協定はすぐに破棄され、戦闘は更に2年間続いた。1975年4月17日、プノンペンがクメール・ルージュにより陥落し、4月30日には1975年春の攻勢で北ベトナム軍がサイゴンを占領し、最後のアメリカ兵がヘリコプターでサイゴンを脱出し、戦争は終結した。その時、ホーチミン死後6年を経過していた。北ベトナム及び民族解放戦線は、膨大な犠牲者と荒廃した国土を引き換えに、勝利者として国際社会から認定され、翌年には南北ベトナムが統一された。
戦争の規模は膨大であり、被害は甚大である。1970年までに、ベトナム共和国陸軍は世界で4番目に大きな軍隊となり、北ベトナム軍も約100万人の正規兵を擁していた[13]。また、民間人含むベトナム側は300万人以上、米軍兵士5万8,220人、カンボジア人27万5,000~31万人、ラオス人2万~6万人が死亡し、さらに1,626人が行方不明となっている。ベトナムは米国が太平洋戦争で使用した弾薬の2.4倍を国土に投下され、 7200万リットルの枯葉剤を南部 70万ha に投下され、3世、4世にまで被害が出続けている。
ベトナム戦争の小康状態を経て、中ソ対立が再燃した。北ベトナムとその同盟国であるカンボジアのカンプチア王国政府、および新たに結成された民主カンプチアとの間の紛争は、クメール・ルージュによる一連の国境侵犯でほぼ開始され、最終的にはカンボジア・ベトナム戦争へと発展していった。中国軍がベトナムに直接侵攻した中越戦争では、その後1991年まで国境紛争が続いた。統一されたベトナムは、3つの国で反乱軍と戦った。この戦争が終わり、第3次インドシナ戦争が再開されると、ベトナムのボートピープルや、より大きなインドシナ難民危機が引き起こされることになる。数百万人の難民がインドシナ(主にベトナム南部)を離れ、そのうち25万人が海で死んだと推定されている。アメリカ国内では、この戦争をきっかけに、アメリカの海外での軍事活動に嫌悪感を抱く「ベトナム・シンドローム」と呼ばれる現象が発生[14] し、ウォーターゲート事件と相まって、1970年代のアメリカを支配した信頼の危機を引き起こした[15]。
フランス植民地時代とベトナム独立運動
[編集]フランス帝国によるベトナム侵略
[編集]19世紀にベトナム(阮朝)はフランス帝国の植民地となる。7月王政時代のフランス帝国(フランス植民地帝国)国王ルイ=フィリップ1世は、1834年にアルジェリアを併合し、1838年にはメキシコで菓子戦争を起こして介入、1844年にはアヘン戦争で敗れた清と黄埔条約を締結した。そして、1847年4月、ベトナムの植民地化を図り、フランス軍艦によるダナン砲撃によるインドシナ侵略を始める。
ナポレオン3世のアジア太平洋進出
[編集]フランス第二帝政のナポレオン3世も東方へのフランス勢力拡大に熱心で、フランス海軍司令官に大幅な自由裁量権を与え、アジア太平洋地域では強硬な帝国主義政策が遂行された[16]。太平洋では、ニュージーランドを併合したイギリスへの対抗、またオーストラリアとの貿易の拠点および犯罪者の流刑地にする目論見で1853年にニューカレドニアを併合した[17][18]。
1856年10月にイギリスがアロー号事件を口実に清へ出兵すると、フランスも清の江西省でフランス人宣教師のオーギュスト・シャプドレーヌが殺害された事件を口実として清への出兵を開始し、英仏は協力してアロー戦争を遂行する(第二次アヘン戦争)[19]。フランスは清侵略と並行して清周辺地域への侵略も開始し、同1856年、阮朝(ベトナム)に対して不平等条約締結に応じるよう要求したが、阮朝が拒否したため、スペイン人宣教師死刑を口実として1857年よりベトナム侵攻を開始し、1858年9月にはフランス・スペイン連合艦隊によって再度ダナンに侵攻する。同1858年、英仏軍による北京陥落を恐れた清政府は天津条約の締結に応じ、一時終戦した。しかし、英仏軍が撤収するや清政府は条約批准を拒否して発砲、1860年に英仏軍が攻撃を再開、北京は陥落する。清はさらに不利な北京条約を締結させられた[20]。フランスは日本とも1858年徳川幕府との間に不平等条約日仏修好通商条約を締結したが、ここでは英仏の協調は崩れ、フランスは徳川幕府、イギリスは薩長を支持して対立、幕府は明治維新で倒れ、また明治政府は対等外交を志向したため、幕府を通じて日本に影響力を行使しようとした目論見は潰えた[21]。
フランスはその後1862年6月に阮朝に不平等条約であるサイゴン条約を結ばせ、南部3省を割譲させた[22][23]。阮朝の宗主権下にあったカンボジア王国では、カンボジア人の反ベトナム感情を利用して1863年にフランス保護国に組み込むことに成功した[24]。1866年には李氏朝鮮に対してフランス人宣教師死刑を口実に戦争を仕掛けたが(丙寅洋擾)持久戦に持ち込まれ、撤退した[25]。1867年6月にはベトナム南部のコーチシナへ侵攻し、併合に成功[26]。シャム(タイ)にも英米に続いて不平等条約を締結させたが、フランスとの対立激化を恐れたイギリスが同地を緩衝地帯にすることを望み、フランスのタイ分割案を牽制したこともあって、タイは植民地化をまぬがれた。
清仏戦争とベトナムの保護国化
[編集]- フランス第三共和政と清仏戦争
フランス第三共和政時代の1874年3月、第2次サイゴン条約を締結、フランスは紅河通商権を割譲させる。1882年4月にはハノイを占領する。1883年8月には第1次フエ条約(アルマン条約、癸未条約)を締結しベトナムがフランスの保護国になる。翌1884年6月には清への服属関係を断つ第2次フエ条約(パトノートル条約、甲申条約)締結に成功する。その2か月後にベトナムへの宗主権を主張する清との間で清仏戦争がはじまる。1885年6月9日に締結された講和条約である天津条約(李・パトノートル条約)では清はベトナムに対する宗主権を放棄し、フランスの保護権を認めた。1887年10月、フランス領インドシナ連邦が成立する。こうしてベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。阮朝は植民地支配下で存続していた。1889年4月にはラオス保護国を併合した。
1900年代になると、ベトナム知識人の主導で民族主義運動が高まった。ファン・ボイ・チャウは、日露戦争でアジアの一国である日本がヨーロッパの帝国の一つであるロシア帝国に勝利したことに感銘を受けて大日本帝国に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開。1917年にロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが植民地解放を支援し、ベトナムの民族運動も、コミンテルンとの連携のもとで展開していく。こうしたなか、1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たし、ベトナム民族が独立することは1945年のベトナム独立宣言でも謳われ、のちの第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)でも、理念であり続け、戦争を持続させた原動力であった。
日本軍進駐とベトナム独立
[編集]日中戦争当時、英米は援蔣ルートを通じて中華民国の蔣介石率いる国民党軍拠点の重慶に支援物資を輸送していた。援蔣ルートのうち、フランス領インドシナのハイフォン港から昆明、南寧までの鉄道輸送を行う仏印ルートが重要なものであった[27][28]。
1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、1940年にはフランスがドイツに敗北し全土をドイツ軍の占領下に置かれ、その後親独政権であるヴィシー政権が成立した。これを受けてフランスの植民地政権がヴィシー政権側につくことを選択したことで、1940年7月27日にドイツとの間で日独伊三国同盟を結んでいた日本政府(第2次近衛内閣)は「時局処理要綱」において仏印進駐を決定。8月30日に松岡・アンリ協定が結ばれ、ヴィシー政権およびフランス植民地政府が日本の経済的優先権および軍事的便宜を認める見返りとして、日本がインドシナにおけるフランスの主権とインドシナの領土保全を約束することで合意した。
このため仏印進出は平和進駐となることが通達されていたが、9月22日には大日本帝国陸軍が越境し、これを受けてフランス軍と第5師団(中村明人中将)が衝突し、日本軍がランソンを軍事制圧する。9月26日に日本軍は北部インドシナに進駐し、仏印援蔣ルートは遮断された。国境監視団は澄田睞四郎少将(澄田機関)が行った[29]。ベトナム人は日本軍を、過酷な植民地支配を続けるフランス人を追い出した「救国の神兵」として歓迎し、さらに駐留日本軍はベトナム国民党などの独立運動を支援しようとする[29]。しかし、松岡・アンリ協定によってフランスのインドシナ領有を尊重する約束が交わされており、東京の大本営は独立支援を許可しなかった[29]。
その2か月後にフランス軍が再度ランソンに進軍[30]。このとき、澄田機関から独立運動を応援するといわれていたチャン・チョン・ラップらが決起するが、フランス軍に制圧され、青年独立義兵が多数処刑されるランソン事件が起こる[30]。逃れた義兵は中華民国でベトミンに合流するが、この事件は日本軍がベトナムの愛国者を見殺しにした事件としても記憶される[30]。
- ベトナム大飢饉とベトミン
(1945年ベトナム飢饉も参照)
ヴィシー政権統治下および日本軍進駐下における1944年末から1945年にかけてのベトナム北部で大飢饉が発生し、20万人[31]以上、ホーチミンの主張では200万人[32]が餓死する事態が発生する。コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンを指導者とするベトミン(ベトナム独立同盟)武装解放宣伝隊は「飢饉は日本軍の政策によるもの」と主張し、民衆の反日感情が爆発した[32]。また、フランス政庁も反日感情をあおるために保有米を廃棄するなどした[33]。この飢饉がベトミンの勢力拡大の決定的な機会となった[34]。
- フランス植民政府の制圧とベトナムへの「独立付与」
日本は1943年5月の御前会議で「大東亜政略指導大綱」を決定し、イギリスの植民地であったビルマと、アメリカの植民地であったフィリピンの独立を承認[35]、戦局が悪化しつつあった1944年9月には、小磯国昭首相がオランダの植民地であったインドネシアの独立承認を言明する。フランス領インドシナについては、1944年8月に連合国軍と自由フランスによるフランス全土の開放によってヴィシー政権が崩壊すると、仏印処理によって即時独立付与が実施される。
イギリスやアメリカ、中華民国などの連合軍と、今や本国が友邦ドイツの敵国の自由フランスの手に落ちたフランス植民地軍との挟撃の可能性を断つために、1945年2月28日に大本営は南方軍総司令官に対してフランス領インドシナの武力処理・明号作戦を通達する[36]。現地フランス軍は9万人、日本軍は4万人であったため、奇襲攻撃を3月9日午後10時にインドシナ全域で開始、翌日午前中までにはフランス植民地軍とフランスインドシナ植民地政府を制圧する[36]。バオ・ダイ皇帝は涙を流しながら「戦争終了後は友邦日本とともに苦難を越えて共同してゆきたい」と語り[36]、3月11日にはベトナム帝国樹立を宣言する。
当時ベトナムでは「日本は笑い、フランスは泣き、中国は心配し、独立したベトナムでは餓死者が道に溢れる」とうたわれ[37]、ハノイの雑誌「タインギ」編集長のヴー・ディン・ホエは日本による独立付与を「天から降ってきた独立」と表現した[38]。他方、ベトミン中央委員会は3月12日、闘争指令を発し、日本軍に対する攻撃を各地で活発化させる[39]。大飢饉の問題については日本軍が引き続き食料供出を要求していたこともあり、このような「独立付与」の枠内では飢饉を解決することはできず、ベトミンによる「日本の倉庫を襲撃せよ」という運動は北部農村で浸透していった[40]。
ベトナム八月革命
[編集]- 日本敗戦とベトナム八月革命
1945年8月10日午後8時に日本政府がポツダム宣言受諾を連合軍に通知したとの短波放送を行い、8月12日午前0時頃、サンフランシスコ放送は連合国の回答を放送した[41]。ラジオで情報を得たホーチミンは日本軍降伏を革命のチャンスとみなし、フランス軍の再進駐より前に実権を奪うことを計画する[41]。8月13日からのアンザン省タンチャウ総司令部での会議では、中華民国やイギリス、アメリカとの紛争を避けて、「味方を多く、敵を少なく、すべての侵略に反対する」という方針が決定された[42]。
なお、結果的に日本が降伏した8月15日以降、アメリカ軍は9月4日、中華民国軍は9月9日、イギリス軍は9月13日、フランス軍は10月5日に至るまでベトナムに上陸しなかったため(マスタードム作戦)、日本軍は武装を解かれず、駐屯フランス軍部隊は明号作戦から拘束されたままという状態が生じ、この政治的空白も独立派に有利に働くことになった。
- ハノイ・クーデター
1945年8月17日に、ベトナム帝国首相のチャン・チョン・キムがハノイ市民劇場前広場で「独立を与えた日本は敗れたが、ベトナムは心を一つにして我々の政権を築こう」とフランスの復帰を警戒する内容の演説を行った[27][43]。このとき、ベトミンが金星紅旗をあげるなかマイクを奪い、「独立万歳」、「打倒ファシスト」、「日本は独立をやってくれたがこれからはみんなで働こう」といった声があがった[27][44]。8月19日にはベトミンの大会が開かれ、20万人のデモ隊は市庁舎や日本軍が手放した保安隊や警察署など政府機関を次々と占拠し、ハノイ・クーデターが成功する[27][45]。8月20日にはフエの王宮にいたベトナム帝国皇帝のバオ・ダイに対して、ベトミン革命軍事委員会が退位を要求、24日、バオ・ダイ帝は退位する[27]。こうして143年続いた阮朝(グエン王朝)は滅亡した。23日から25日にかけて駅、中央郵便局、発電所などが占拠され、26日にはベトミン軍がハノイに入城、28日にベトナム民主共和国臨時政府が樹立された[27]。
- ベトナム独立宣言
9月2日にホー・チ・ミン(胡志明)は「ベトナム独立宣言」を発表、すべての民族は平等であり、1847年のフランス軍艦によるダナン攻撃事件以来、80年にわたるフランスの植民地支配を人道と正義に反するものとして糾弾した[27][46]。こうしてベトナム八月革命は成功し、ハノイを首都とするベトナム民主共和国(北ベトナム)が樹立し、共産主義国家建設を目指した。ホーはアメリカのハリー・S・トルーマン大統領に国家としての承認を繰り返し書簡で求めた[47] が、同盟国であるフランスに対する気遣いとともに、共産主義者による統治を警戒するアメリカ政府はとりあげなかった[48]。また、新設された国際連合にもフランス植民地支配についての公正な解決を訴えたが、徒労に終わった[47]。
インドシナ戦争
[編集]連合軍・自由フランス軍の再進駐
[編集]第二次世界大戦末期の戦後統治計画を練るなか、自由フランスのシャルル・ド・ゴールを嫌っていたアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は「フランスはインドシナを植民地にしてから何か発展させたことがあったか。あの国は百年前よりひどくなっている」とフランスのインドシナ植民地を批判し、インドシナ信託統治を構想していた[49]。しかし、イギリスは信託統治をしたらイギリス帝国がなくなってしまうとして反対し、新たにフランスの事実上の指導者となったド・ゴールは1945年3月24日にインドシナ連邦を構築し、フランス総督が統轄し、フランス連合に組み入れると声明を発表し[49]、植民地時代の復帰を求めた。
ルーズベルトが1945年4月12日に死去してからアメリカ国務省はインドシナ問題を検討し、4月20日に国務省欧州担当官はルーズベルトのあとを継いだトルーマンに対して「アメリカはフランスのインドシナ復帰に反対すべきでない」と、反共主義の立場から進言し、同極東担当官も翌日同内容の進言を行った[50]。6月22日にアメリカ国務省は「アメリカはフランスのインドシナ主権を承認する」との統一見解を決定する[50]。
1945年7月26日に連合国によって開かれたポツダム会議で、「インドシナは、北緯16度線を境に、北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐して、約6万のインドシナ駐留日本軍を武装解除してフランス軍に引き継ぎ、インドシナの独立を認めない」と決定された。9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言を受けて、南部に進駐していた駐英領インド軍のダグラス・グレイシー将軍は騒乱を理由にベトナム民衆から武器の押収をはじめる[51]。9月6日には駐英領インド軍の部隊がサイゴンに入り、9月9日には盧漢将軍率いる中華民国軍がハノイに入った。
これらの連合国軍は、日本軍の収容所に入れられていたフランス軍将兵を解放し、9月23日午前5時、英領インド軍の援助で武装した1000名のフランス軍がサイゴン侵攻を開始、主要な公共機関を占拠し、フランス国旗を掲げ、サイゴン全域を制圧した[52]。英領インド軍のグレイシー将軍は戒厳令を敷いた[52]。こうした英軍の行動について読売新聞編集員の小倉貞男は「英国はアジアにも植民地をもっており、インドシナの独立によって、植民地支配を崩そうとする連鎖反応が起こることを極度に警戒していた」と指摘している[52]。10月5日にはフランス軍増援部隊が到着、サイゴンなど南部の革命勢力は制圧され、さらにメコン・デルタも制圧し、北上を開始する[52]。
- インドシナ共産党の偽装解散
進駐した連合軍のうち、中華民国の中国国民党軍はフランス植民地政府の復活を支援する意図はなかったが、敵対する中国共産党と同じイデオロギーであるインドシナ共産党に対して好感をもっていなかった[53]。そのため、ホー・チ・ミンは中国国民党軍との対立を避けるために、 1945年11月、インドシナ共産党を偽装解散させる[54]。インドシナ共産党は党員を「民族の前衛戦士」となづけ、さらに民族の利益を党の利益よりも優先させることを特徴としていた[55]。
1946年2月28日、フランスは「中国・フランス協定」を結び、中華民国が要求していたハイフォン港自由化などを中国軍の撤退を条件に受け入れる[56]。また、フランス政府はホー・チ・ミンらベトナム民主共和国を「フランス連合」の一員としての独立を認めると通告するが、ベトミンは完全独立を要求し、交渉が持続されていた[56]。そうしたなか、同年3月5日、連合軍東南アジア軍司令部は、南部インドシナが連合軍統轄下よりフランス軍管理下に移行したことを発表、フランス軍は北緯16度線以南はフランス当局が接収すると声明を発表する[56]。自由フランス軍のフィリップ・ルクレール将軍指揮下の第2機甲師団がサイゴンに入りインドシナ南部のコーチシナを制圧、3月6日にフランス軍はハイフォン港に上陸し、3月18日にはハノイに入城した[56]。フランス軍は1946年5月までにラオスにも進駐し、インドシナ一帯を占領する。1946年3月には制圧したコーチシナでフランスは傀儡国家であるコーチシナ共和国を成立させ、グエン・バン・ティンを首班に置いた。こうしたフランス軍の軍事行動に対してホー・チ・ミンらは強く抗議、フランスはインドシナ連邦を置くことであからさまな植民地経営をやめ、事態の解決を図ろうとするが、これでは植民地時代と同じものであり、許容出来ないとして、1946年9月、ベトナム民主共和国側との交渉は決裂した。
士官学校とインドシナ残留日本兵
[編集]ベトミンはソ連と中国共産党からの軍事支援を受けるまでは装備も乏しかったが、1946年4月には独自の軍士官学校を二校設立した。一校は北部ソンタイにあり、教官は日本軍に追われて以来ベトミンに合流していたフランスインドシナ軍の下級将校であった[57]。もう一校は中部沿岸のクァンガイ陸軍士官学校で校長は中国共産党のグエン・ソンだが、教官は元日本軍の士官や下士官であった[57][58]。このような残留日本兵は「新ベトナム人」とよばれた[59][60]。日本軍インドシナ駐屯軍参謀の井川省少佐はベトナム名レ・チ・ゴといい、ベトミンに武器や壕の掘り方、戦闘指揮の方法、夜間戦闘訓練などの技術、戦術などを提供した。また、井川参謀の部下の青年将校中原光信はベトナム名をヴェト・ミン・ゴックといい、第二大隊教官としてベトミンに協力した[57]。ほかにも石井卓雄、谷本喜久男(第一大隊教官)、猪狩和正(第三大隊教官)、加茂徳治(第四大隊教官)らがいた[61][62]。 日本敗戦後、ベトミンに協力したインドシナ残留日本兵は766人にのぼる[63]。また、武器は中国共産党から提供されたが、多くは日本軍から鹵獲したもので、38式小銃などが多かった[64]。[注 2]
勃発
[編集]1946年11月20日、ハイフォン港での銃撃事件を口実にフランスとベトミンとの間で全面交戦状態が始まり、インドシナ戦争(第一次インドシナ戦争)が勃発した。フランス軍は12月19日にハノイのベトナム民主共和国政府へ武力攻撃を開始し、12月20日、ホーチミンは全国抗戦声明を発表した[65]。
われわれは平和を切望し妥協を重ねてきたが、妥協を重ねれば重ねるほどフランスはわが国を征服しようとしている。われわれは犠牲を辞さない。われわれは奴隷とはならない。すべての老若男女に訴える。主義主張、政治性向、民族を問わず、立ち上がり、フランス植民地主義と戦い、国を救おう---ホー・チミン抗戦声明[65]
フランスは、国民の人気が高かったバオ・ダイ帝を担ぎ出し、1948年6月5日にサイゴンに「ベトナム臨時中央政府」を発足させる[65]。大統領はグエン・ヴァン・スアン[65]。翌1949年3月にはサイゴン市(現ホーチミン市)を首都とするベトナム国を樹立する[48]。フランスはバオ・ダイ政権を唯一の正当な政府と宣言し、ベトミンを徹底的に弾圧すると表明した[65]。
冷戦(ソ連、アメリカ、中華人民共和国の介入)
[編集]第二次世界大戦後はアジア・アフリカの植民地で、支配国である連合国に対して独立運動が激化していた。1945年にはインドネシア、ベトナム、10月にラオスが、1946年にはフィリピン、1947年にはインドがパキスタンと分離独立、1948年には2月にセイロン(スリランカ)が、同年にはビルマや、また大韓民国が8月13日に独立した。1949年には国共内戦で中華民国軍に勝利した中国共産党によって中華人民共和国が樹立した。
1947年3月にはインドのネルーによってアジア関係会議が開催され、29カ国が集まり、非植民地化の推進やアジアの連帯が協議された[66]。1948年末にオランダ軍が第二次治安行動を開始し、インドネシア共和国のスカルノを逮捕したことに抗議してビルマのウ・ヌー首相はインドのネルー首相によびかけ、1949年1月にニューデリーでアジア独立諸国会議が開催された[66]。
植民地の維持を目論むイギリスやオランダ、フランスなどの旧宗主国と、長年の過酷な植民地支配を受け続けた上に、一旦は日本軍によって放逐された宗主国の姿を目の当たりにして解放を欲する植民地国民の間でしばしば紛争が頻発した。アジアでは、戦勝国であるソ連政府とアメリカ政府のいずれかによって指導・支援されている例が多かった。スターリン政権のソビエト連邦は、トルーマン政権のアメリカに対抗するために、世界中を共産化するため、共産主義の革命勢力を支援した。米ソ共に核兵器を保有し、直接の全面戦争を避けて、衛星国同士で戦闘を行う「冷戦」構造が成立した。この冷戦は、ベルリン封鎖、朝鮮戦争、インドシナ戦争、ベトナム戦争、キューバ危機に見られるように、「代理戦争」という形で表面化した。ただし、冷戦構造は大国中心であったが、小国からの要請で大国が動くという、「下からの突き上げ・弱者の脅迫」が作用し得る構造でもあり、ベトナム戦争も単なる「代理戦争」ではなかったという見解もある[67]。
資本主義・自由主義の盟主を自認するアメリカ政府は、中華人民共和国や東ヨーロッパでの共産主義政権の成立を「ドミノ倒し」に例え、一国の共産化が周辺国にまで波及するという「ドミノ理論」を唱え、アジアや中南米諸国の反共主義勢力を支援して、各地の紛争に深く介入していく。とりわけ国共内戦で国民党軍に勝利した中国共産党が1949年10月に中華人民共和国を建国したことは、反共主義を唱えるアメリカにとって衝撃であり、共産主義封じ込め戦略の観点から、インドシナ戦争においてはフランスを支援することを決定した[68]。
- ホー・スターリン・毛沢東三者会談
1950年1月14日、ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国の国家承認を求める声明を発表[68]。1月18日、成立直後で自らも国家国際承認を受けてすらいない毛沢東による中華人民共和国は、ベトナム民主共和国を正統政権と認めた[68]。中共による承認を受けてホーは北京に入ったあと、スターリンのソ連による承認をとりつけるためにモスクワに向かった[68]。しかし、スターリンは毛沢東に対しても警戒していたほどであったから、ホーに対しても直接的な支援には消極的だったが、結局、毛沢東の仲介でスターリンとホー・チ・ミンの会談が実現する[69]。1月31日、ソ連もホーの要請を受けてベトナム民主共和国を正式に承認した[70] が、ホー・チ・ミンへの直接的支援は断り、ベトナムの支援は中国の課題であると答えた[69]。その後、ホーと毛沢東は北京で会談、毛は武器援助・資金援助を約束し、1950年4月にはホーチミンは中国から借款と兵士二万人分の装備提供を受けた[64]。
朝鮮戦争
[編集]1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、中華人民共和国はアメリカが、朝鮮・台湾海峡・インドシナの三方面から攻撃してくる可能性に危機感をつのらせ、ベトナムへの軍事顧問団の派遣を実施する[71]。のちにソ連、チェコからは対戦車ロケット弾やトラックが提供された[64]。こうした提供に対してベトミンはタングステンや錫、米、ケシなどで支払った[64]。中華人民共和国などから援助を受けたベトミンは1950年末には、精強師団を結成する[64]。
他方、フランスは1950年2月16日のアンリ・ボネ駐米大使とアチソン国務長官との対談で米国による支援を要請する[72]。1950年5月25日、ハリー・S・トルーマン政権下の米国はフランス軍支援を決定する[72]。1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争を受けて、トルーマン大統領は国際共産主義運動をファシズムと同じ脅威と規定し、朝鮮戦争において共産主義勢力が従来の政治宣伝を中心とした間接侵略から、武力行使による直接侵略に移行したとみなし、国連の緊急安全保障理事会でも北朝鮮の行動を「平和に対する侵犯」とみなし、北朝鮮への非難決議案を提起、ソ連は国共内戦に勝利した中国共産党が中国本土に中華人民共和国を樹立したにもかかわらず、台湾島に逃げた中華民国が常任理事国議席にあることに抗議して欠席していたため、決議案は可決した[73]。トルーマンは米軍を朝鮮半島だけでなく、台湾海峡にも第7艦隊を派遣し、またフィリピンやインドシナ半島への軍事的関与の強化を発表[73]、朝鮮戦争が開戦してから4日後の6月29日には輸送機C47機がサイゴンに到着する[72]。国連での非難決議を無視して北朝鮮はソウルを陥落させるなど進撃を続けたため、6月30日に米政府は地上軍を朝鮮に派遣することを決定、7月には国連軍派遣が決定する。しかし国連軍は11月には総崩れとなり、トルーマンは原爆の使用を示唆する[74]。急遽、イギリスのクレメント・アトリー首相がワシントンに行き、トルーマンの説得を行った[75]。こうして共産主義圏と自由主義圏との冷戦構造が明白なものとなる。
以降、アメリカからの援助は1952年度までに年額約3億ドルに及び、ドワイト・D・アイゼンハワーが大統領に就任した1953年には約4億ドルに上った。4年間の援助総量は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬1億7千万発以上、医薬品、無線機などが送られている。また、アメリカ軍事顧問団は約400人程度が派遣され、ベトナム国軍など現地部隊の教育訓練を開始し、フランス軍の兵力不足を補うべく活動した。アメリカからの軍事支援を受けたフランス軍は、ソ連や中華人民共和国からの軍事支援を受けたホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国軍と各地で鋭く対立を続け、アンリ・ナヴァール将軍指揮下の精鋭外人部隊など、クリスティアン・ド・カストリ大佐を司令官とする1万6200人[76]の兵力を投入し、ベトナム民主共和国軍との戦闘を続けた。
- ドンケ攻撃
1950年夏にはベトミンは全土総攻撃作戦の第四〇作戦の展開を決定、9月16日にはドンケ攻撃を開始、フランス軍200名は全滅した[77]。
1950年12月にはサイゴンにてフランスのジャン・ルトルノー海外担当大臣とアメリカのヒース公使、ベトナム国のチャン・バン・フー首相の三者会談により軍事援助協定が結ばれ、アメリカはフランス軍とインドシナ三国に軍事援助を開始した。
- ベトナム労働党と「中国モデル」の導入
戦争中の1951年2月の党大会でホーは偽装解散していたインドシナ共産党を改組し、ベトナム労働党とした[71]。この大会でホーはスターリンを「世界革命の総司令官」、毛沢東を「アジア革命の総司令官」と呼び、さらに中国共産党の劉少奇が1949年11月に発表していた民族統一戦線、共産党による指導、武装闘争と根拠地などに関するテーゼを採用し、中国共産党による「革命」をモデルとした[71]。しかしこうした急進的かつイデオロギーに固執した「中国モデル」の採用は1953年から本格的に開始された農地改革において、ベトナム伝来の農村社会に大きな混乱をもたらした[78]。ベトナムの農地改革は中華人民共和国から派遣された顧問の指導のもとで実施されたが、「農村人口の5%は地主」とする規定を機械的に導入し、そのため、地主や富農ではない民衆が人民裁判にかけられて処刑されたりした[78]。
ディエンビエンフーの戦いとフランス軍の敗退
[編集]フランス軍の現地兵とモロッコやアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人達の士気は低く、戦闘していたのは外人部隊と志願兵からなる落下傘隊員であった。ヴォー・グエン・ザップ将軍指揮下のベトミンによる組織的な反撃を受け、1953年に入るとフランス軍は空母を派遣するなど立て直しを図るものの、点を確保するのみで[79]劣勢に立たされていた。1953年4月時点で米国もインドシナ情勢におけるフランス軍は危機的な状況にあるとみていた[79]。米陸軍は大統領安全保障会議への報告において、
- 米国が介入しても、空軍・海軍のみでは勝利は難しい
- 原子爆弾を使用しても、敵軍の兵力削減は難しい
- 米国勝利のためには七個師団が必要
といった提言を行っている[79]。
ディエンビエンフーの戦い
[編集]1953年11月20日にはフランス軍はカストール作戦を実施、ベトミンが展開するラオス国境に近いディエンビエンフー盆地を12000の兵力で占領し、橋頭堡としての要塞をつくることで、ベトミンの動きを封じようとした。フランス側はベトミンが重火器を持っていないまたは持っていたとしても使いこなせないと予想していた。しかしベトミンは現地の少数民族の支援もあって中国から供給された重火器をディエンビエンフー盆地を囲む山上まで運んでいた[80]。1954年3月、ベトミンは戦闘を開始、攻撃開始日からベトミン軍は猛烈な砲撃を加え、人海戦術により独立高地に設けた2個のフランス軍陣地は陥落した。フランス軍は劣勢となり3月末には滑走路も使用不可能になり、4月には3個空挺大隊と近接航空支援を増強したが、雨季の天候は空軍の活動を制限した。対し、ベトミン軍の夜襲は次々とフランス軍陣地を攻略し、末期には周囲2kmの範囲のみを保持するのみで、5月7日にフランス軍は降伏、残った約1万人のフランス兵は捕虜となった。このディエンビエンフーの戦いでフランス軍は敗北し、事実上壊滅状態に陥る。ディエンビエンフーの戦いにおけるフランス軍降伏について、東京大学教授古田元夫は「ヨーロッパの万を超える精鋭部隊が、植民地現地の軍事勢力に降伏した世界史的出来事で、植民地体制の崩壊を象徴する事件」と指摘している[80]。
フランス軍降伏の報せを聞いたアメリカのリチャード・ニクソン副大統領は、周辺山岳地帯に集結したベトミン軍に対する小型原子爆弾の使用をドワイト・D・アイゼンハワー大統領に進言したが却下された[81]。また、アメリカの統合参謀本部はフィリピンに展開しているボーイングB-29爆撃機による支援爆撃を主張したが、アイゼンハワー大統領はこれも却下した。
ディエンビエンフー陥落後も、ベトミンはトンキンデルタに展開するフランス軍にゲリラ攻撃を仕掛け、各地の攻撃を実施した。同年6月にフランス軍はフーリー、ソンタイ、ラクナム、ハイフォンを結ぶ一帯から撤収を開始、7月にハノイ-ハイフォン回廊に撤退し、ここに至りフランス軍の敗北は決定的となる。
ジュネーブ協定と南北分断
[編集]フランス軍の危機的な状況が国際社会に認知されていくなか、1954年4月26日にはスイスのジュネーヴに関係国の代表が集まり、和平交渉としてインドシナ和平会談(ジュネーヴ会談)が開始された。参加国は当事国のフランスとベトナム国、ベトナム民主共和国、さらに、アンソニー・イーデン外務大臣を議長として送り込んだイギリスとアメリカ、カンボジア、ラオス、ソ連、中華人民共和国であった。会議は3カ月続き、フランス軍が壊滅した1954年7月、インドシナ和平会談において関係国の間で和平協定であるジュネーヴ協定(インドシナ休戦協定)が成立した。
これにより第一次インドシナ戦争の終結とフランス軍のインドシナ一帯からの完全撤退、並びにベトナム民主共和国の独立が承認された。北緯17度を南北の暫定的軍事境界線とし、南北を分割、また南北統一のための自由総選挙を1956年7月までに実施するという内容だった。ただし、アメリカと南ベトナムは調印に参加しなかった[82]。ベトナム民主共和国がこの内容に妥協したのはアメリカの参戦を警戒したためで、ソ連と中華人民共和国もベトナムに譲歩するよう強く求めた[83]。
1954年4月28日から5月2日まで、セイロンのコテラワラ首相が提唱しコロンボ会議が開催され、インド、パキスタン、セイロン、ビルマ、インドネシアの首脳が集まり、インドシナ戦争の停止などを訴え、ジュネーブ会議にも影響を与えたほか、とくにイギリス連邦の中心であるイギリスはジュネーブ会議においてアメリカの戦争拡大方針に同調しなかった[84]。
アメリカのインドシナ半島への介入開始
[編集]このころ、休戦交渉と並行して、ジュネーブ協定が締結される直前の1954年7月7日、バオ・ダイ時代に内相をつとめ、反共主義でカトリック教徒のゴ・ディン・ジエム(呉廷琰)による政権が、アメリカの根回しで樹立されていた[85]。さらに1954年9月27日 - 29日のワシントンでの米仏会談で、インドシナ駐留フランス軍への援助は打ち切られ、アメリカは1955年1月からインドシナ諸国に対して直接の援助を行うことを決定した[86]。1950年10月にサイゴンで組織されていたインドシナ米軍事援助顧問団(MAAG)は、1955年11月に南ベトナム米軍事援助顧問団へと改組され、南ベトナム政府軍の軍事教練が開始した。団長はサミュエル・ウィリアムズ将軍。
アメリカは、ジョージ・ケナンらが提唱する、冷戦下における共産主義の東南アジアでの台頭(ドミノ理論)を恐れ、フランスの傀儡政権だったベトナム国を17度線の南に存続させ、ベトナムは朝鮮半島やドイツと同様、分断国家となった。
南北の境界線が確定された際、ベトナム国民が双方の好む体制側に移動することがジュネーブ協定によって認証され、60日間の猶予で行なわれたが、北ベトナムの総人口1300万のうち、100万人が南ベトナムへ移動、逆に南から北へ移動した国民は9万人であったという。また、宗教の存在を否定する共産主義者による統治を嫌う北ベトナムに住むカトリック教徒の多くは、ベトナム民主共和国の独立に伴いベトナム国へ難民として逃れた。
南北対立と米国の本格的介入
[編集]ジエム政府(南ベトナム)
[編集]ジュネーブ協定と並行して1954年7月に樹立された反共主義者ゴ・ディン・ジエムによる政権は、翌1955年4月に国民の意思と称してバオ・ダイ帝に退位を迫り、6月14日にジエムは自ら国家元首に就任した[86]。10月24日には共和制か王制かを問う国民投票を実施、10月26日にはベトナム共和国(通称「南ベトナム」)樹立宣言を行い、ジエムは初代大統領に就任した[86]。こうして、植民地時代にフランスや日本の傀儡政権となりながらも持続してきたベトナム王朝は消滅し、バオ・ダイはフランスへ亡命した。ジエムの政権樹立にはCIA工作員でアメリカ空軍准将のエドワード・ランズデールによる支援があった。自由主義者や民主主義者、民族主義者や反共主義者、カトリック教徒らがジエム政権の支持母体となり、アメリカ合衆国の傀儡国家かつ東南アジアにおける反共防波堤[86]という性格を持つベトナム共和国が建国された。
ジエム大統領はジュネーヴ協定に基づく南北統一総選挙を拒否した。これは、もし選挙を実施すればフランスを打ち破ったベトナム民主共和国が勝つのは明白だったからである。
直近の、中国における国共内戦や、朝鮮半島における朝鮮戦争などのため、南ベトナムのジエム政権は東南アジア情勢が選挙どころではなく共産勢力と一触即発の状態であると認識しており、そのため南北統一選挙を拒否したのであるが、北ベトナムのホー・チ・ミン政権はこの南北統一選挙に勝てると勝算を持っていたため、このことでますます南北間の対立が悪化することになった。アイゼンハワー政権下のアメリカは、それまでのフランスに代わりジエム政権を軍事、経済両面で支え続け、ジエムからの依頼を受けて南ベトナム軍への重火器や航空機の供給をはじめとする軍事支援を開始した。しかし、ジエム大統領一族による独裁化と圧政のため、ジエム政府に対する南ベトナム国民の反発はかえって強まっていった。
戦後の日本で農地改革計画をつくったウォルフ・ラデジンスキーが米国援助使節団としてジエム政府に提言し、ジエム政府は1956年11月21日、法令57号を発布、農地改革を行い[87]、その後も「カイサン計画」などを実行するが、日本の場合と異なり、いずれも失敗した[88]。
反政府勢力の掃討作戦
[編集]また、ジエムは弟のゴ・ディン・ヌーを大統領顧問に任命し、秘密警察やカンラオ(勤労)党組織を用いて反政府勢力を弾圧した。1958年12月1日には1000人の政治犯が食後に死亡するというフーロイ収容所虐殺事件を引き起こした[89]。1959年5月6日には国家治安維持法の第十号法令を発布、これにより特別軍事法廷は反政府勢力を思うがままに投獄することが可能となった[89]。1959年7月から1960年7月までのジエム政府軍による反政府勢力掃討作戦は82回で、暴行、焼き打ち、虐殺を繰り返し、さらし首や、人間の生きた肝臓は精力がつくとして反政府勢力と目されるベトナム民衆の肝臓を取り出して食べたりした[89]。1960年までに80万人が投獄され、そのうち9万人が処刑され、19万人が拷問により身体障害者となったとされている[90]。「政治訓練センター」には常時8千 - 1万人が収容され、さらに農民の収容所としてアグロビル計画が実施され、これにより農民が代々住んできた家屋が破壊され、農民たちは強制的に収容されていった[91]。アグロビル計画の対象地域は400箇所にものぼった。
反ジエム連合戦線
[編集]1955年、1956年頃より私兵団を持つカオダイ教団やホアハオ教らの新宗教組織が、ジエム政権による弾圧に対抗して戦闘を開始しており、その他にもビン・スエン派などのギャング私兵団もジエム政権に反発していたため、反ジエム連合戦線のカオ・ティエン・ホア・ビン連合が結成された[92]。1957年から58年にかけて反ジエム連合戦線の勢力は強まった[93]が、逆に政府軍によって鎮圧された。
南ベトナム解放民族戦線
[編集]第十五号決議
[編集]ジュネーブ協定に基づく南北統一選挙が行なわれなかったことに強い憤りを覚えたホーチミンは、1959年1月13日、ハノイで第15回ベトナム労働党中央委員会拡大総会を開催し、南部の政権を転覆するための武力解放戦争を決議した「新しい段階に入った南部ベトナムの政策について」と題する第十五号決議が提出された[94]。第十五号決議では「米国はもっとも好戦的な帝国主義者である。(中略)われわれ中央も、敵も、たがいに長期にわたる戦いになることは確実である。しかし最後の勝利はかならずやわれわれに帰するだろう」と記された[95]。1959年5月には南部武力解放指令が出され、ボ・トゥ・レン・ナム・ナム・チン(コマンド559)という突撃・偵察隊が結成、山岳少数民族の協力要請も含めて、のちにホーチミン・ルートとよばれる補給路の建設が開始された[96]。戦争終結までにこのホーチミン・ルートは16000kmにも及び、南に輸送された物資は4500万キロトン、パイプラインは3082km、往来した人数は延べ200万人にのぼった[96]。
第十五号決議は1960年9月の第三回党大会で正式に承認された[97]。
Đ基地とベンチェ動乱
[編集]1959年11月、南ベトナムの秘密基地Đ(「東」を意味するベトナム語Đôngの頭文字)に第十五号決議が届く[98]。武器のなかったĐ基地は政府軍の武器を強奪することを計画、1960年1月17日午前6時、ベンチェのベトミンゲリラ軍が、ディントゥイ政府軍宿舎を襲撃、また市場でも朝食を食べていた政府軍兵士が農民たちによって取り押さえられた[99]。ディントゥイ政府軍からはライフル30丁を得て、さらにフォッグヒエップ村、ビンカイン村の政府軍も制圧、計100丁のライフルと2丁の重機関銃を得た[99]。その後、政府軍はゲリラ軍鎮圧を開始するが、ゲリラ軍はフォッグヒエップ村の女性5000人に喪章をつけて政府軍の残虐な行動に抗議するよう県庁に抗議行動を連日行わせ、1960年3月15日、県庁は要求を受け入れる[100]。米国軍事顧問団とジエム政府はこれらの女性たちを「ロング・ヘアー・アーミー」と名付けて対応に苦慮した[100]。
NLF結成
[編集]1960年12月20日、南ベトナム解放民族戦線(National Liberation Front、略称はNLF)が結成された。翌年2月に解放戦線はハノイ放送を通じて宣言と綱領を発表、「1954年のジュネーブ協定でベトナムの主権が承認されたにもかかわらず、米国がフランスにとってかわり、南部にジエム政権をつくり、形をかえた植民地支配をすすめている」と主張した[101]。南ベトナム解放民族戦線は、「ジュネーブ協定を無視したジエム政権とその庇護者であるアメリカの打倒」との名目を掲げて、南ベトナム政府軍とサイゴン政府に対するゲリラ活動・テロ活動を活発化させて宣戦布告し、政府軍との内戦状態に陥った。NLF結成の報告を聞いたジエムは即座に共産主義者の蜂起と断定し、「ベトコン」(「ベトナムの共産主義者」の意)と呼んだとされており、米・南ベトナム政府ではNLFへの蔑称で使われた。
NLFの構成員には南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や学生、自由主義者などの、共産主義とは無関係の一般国民も多数参加していた。しかし、戦闘の激化によって次第に北ベトナムの工作機関と化しホーチミン・ルートを経由して中華人民共和国や北朝鮮、ソビエト連邦などの共産主義国から多くの武器や資金、技術援助を受けることになる。
NLFはわずか2年の間で4000名規模にまで拡大した。NLFは、当初は、ジェム一族の政権私物化と腐敗、その後ろ盾であったアメリカに対する抗議・抵抗運動が起点であった。若い学生がNLFの中核として、ベトナム統一戦争に参加した。
アメリカ軍事介入の開始
[編集]ケネディ政権
[編集]- アメリカ軍事顧問団の増強
1961年1月20日、アメリカ民主党のジョン・F・ケネディが第35代アメリカ合衆国大統領に就任する。ケネディ政権が2年10か月の政権期間に行った外交政策の中で、最も大きな議論を呼んだのが、派兵拡大を押し進めた対ベトナム政策であるとされる[102]。
ケネディ政権は、アイゼンハワー政権を引き継いだ就任直後に東南アジアにおけるドミノ理論の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置し、統合参謀本部に対してベトナム情勢についての提言を求めた。特別委員会と統合参謀本部はともに、ソ連や中華人民共和国の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けていたベトナム共和国(南ベトナム)へのアメリカ正規軍による援助を提言した。
ケネディは、正規軍の派兵は、ピッグス湾事件やキューバ危機、ベルリン危機など世界各地で緊張の度を増していたソビエト連邦や中華人民共和国との対立を刺激するとして行わなかったものの、「(北ベトナムとの間で)ジュネーブ協定の履行についての交渉を行うべき」とのチェスター・ボウルズ国務次官とW・アヴェレル・ハリマン国務次官補の助言を却下し[103]、「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」との名目で、1961年5月にアメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」という名目の、実際はゲリラに対する掃討作戦を行う、アメリカ正規軍からなる特殊作戦部隊600人の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的でクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始した。
さらに併せてケネディは、フルブライト上院外交委員会委員長に「南ベトナムとラオスを支援するためにアメリカ軍を南ベトナムとタイに送る」と通告、ジョンソン副大統領とロバート・マクナマラ国防長官をベトナムに派遣した。ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」と迅速な支援を訴え、同じくマクナマラも、その後南ベトナムの大統領となるグエン・カーンへの支持を表明し「我々は戦争に勝ちつつあると、あらゆる定量的なデータが示している」と報告し[104]、ケネディの決定を支持した。
1962年2月、ケネディ政権は、ゲリラではない農民と南ベトナム解放民族戦線のゲリラを識別するために、戦略村と称する農耕集落を建設し、南ベトナム解放民族戦線のゲリラではない農民を戦略村に移住させ、戦略村に移住しない農民は南ベトナム解放民族戦線のゲリラと見なして攻撃する作戦を開始した。ケネディ政権の目論見に反して、アメリカ合衆国の戦争の都合のために、先祖代々の農地を離れて戦略村への入居を要求されても拒絶する農民が続出し、戦略村に対する南ベトナム解放民族戦線の攻撃も頻発し、アメリカ合衆国軍は戦略村を維持できなくなり、戦略村作戦は破棄された。
アイゼンハワー政権下の1960年には685人であった南ベトナム駐留米軍事顧問団は、1961年末には3,164人に、1963年11月には16,263人に増加した。1962年2月には南ベトナム軍事援助司令部 (MACV) を設置、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦車などの戦闘車両や重火器などの装備も送るなど、「軍事顧問団」という名目の特殊作戦部隊であるものの、事実上の正規軍の派遣に格上げする形とした。
さらにケネディは、1962年5月に南ベトナムとラオスへの支援を目的にタイ国内の基地に数百人規模のアメリカ海兵隊を送ることを決定した。ケネディ政権はこのような軍事介入拡大政策を通じてベトナム情勢の好転を図ろうとしたものの、ケネディ政権の思惑に反して、アプバクの戦いで南ベトナム軍とアメリカ軍事顧問団が南ベトナム解放民族戦線に敗北するなど、事態は好転しなかった。そのような中で、ゴ・ディン・ジェム南ベトナム大統領も、軍事介入の拡大とともに内政干渉を行うケネディ政権を次第に敵対視するようになった。ケネディは「『アメリカは(南ベトナムから)撤退すべきだ』という人たちには同意できない。それは大きな過ちになるだろう」と述べ[105] 南ベトナムからのアメリカ軍「軍事顧問団」の早期撤収を主張する国内の一部の世論に対して反論した。
さらにケネディはアメリカ政府によるコントロールが利かなくなっていたジエム政権への揺さぶりをかけることを目的に、あえてこれまでのような軍事顧問団の増強方針から一転して、1963年10月31日に「1963年の末までに軍事顧問団から1,000人を引き上げる」と発表。1963年11月にはマクナマラ国防長官が「軍事顧問団を段階的に撤収させ、1965年12月31日までには完全撤退させる計画がある」と発表し、アメリカに対し敵対的な態度を取り続けるジェム政権に揺さぶりをかけた。なお、後に泥沼化したベトナム戦争からのアメリカ軍の完全撤収を決めた「パリ協定」調印に向けた交渉を行ったヘンリー・キッシンジャーは、ケネディ政権による「軍事顧問団の完全撤収計画」の存在を否定しており、このケネディ政権による「軍事顧問団の完全撤収計画」の発表は単なるジエム政権に対するブラフであり、これ以降も軍事介入拡大政策を取り続ける意向であったことが明らかになっている。
仏教徒による抗議・焼身自殺
[編集]1960年代に入ると、自らが熱心なカトリック教徒であり、それ以外の宗教に対して抑圧的な政策を推し進めたジェム政権に対し、南ベトナムの人口の多くを占める仏教徒による抗議行動が活発化した。1963年5月にユエで行われた反政府デモでは警察がデモ隊に発砲し死者が出るなどその規模はエスカレートし、同年6月には、仏教徒に対する抑圧を世界に知らしめるべく、事前にマスコミに対して告知をした上で、サイゴン市内のアメリカ大使館前で焼身自殺をした僧ティック・クアン・ドックの姿がテレビを通じて全世界に流され、衝撃を与えるとともに、国内の仏教徒の動向にも影響を与えた。
これに対してジェム大統領の実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーが、「あんなものは単なる人間バーベキューだ。しかもアメリカから輸入したガソリンを使うとは矛盾している」とテレビのインタビュー番組で語り、この発言に対してアメリカのケネディ大統領が激怒したと伝えられた。南ベトナムではその後も僧侶による抗議の焼身自殺が相次ぎ、これに呼応してジェム政権に対する抗議行動も盛んになった。敬虔な仏教徒で知られた国際連合事務総長ウ・タントも、ベトナム戦争に苦言を呈して、アメリカ合衆国は国際連合との関係も悪化した[106]。
ケネディ大統領黙認下でのジェム大統領暗殺
[編集]この様な混沌とした状況下において、南ベトナム軍内の反ジェム勢力と、アメリカ軍の「軍事顧問団」と近い南ベトナム軍内の親米勢力(この2つの勢力は事実上同一であった)によって反ジェムクーデターが計画され、その状況は南ベトナム軍事援助司令部を経由してケネディ政権にも逐次報告されるようになっていた[注 3]。
1960年に発生したクーデターは失敗に終わるが、1963年11月2日に発生したクーデターは成功した。クーデターを引き起こした反乱軍によって、ジェム大統領とヌー秘密警察長官は政権の座から下ろされ、逃げ込んだサイゴン市内のチョロン地区にあるカトリック教会の前に止めた反乱部隊の装甲兵員輸送車の中で殺害された。これを受けてヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーをはじめとするジェム政権の上層部も国外へ逃亡し、ジェム大統領とその一族が南ベトナムから姿を消したその当日には、南ベトナム軍の軍事顧問で将軍でもあり、アメリカ軍と深い関係にあったズオン・バン・ミンを首班とした軍事政権が成立する。
ケネディ大統領がどこまで反ジェムクーデターに関与、支持していたのかについては議論が分かれている[107] が、後にマクナマラ国防長官はこの反ジェムクーデターに対して「ケネディ大統領はジェム大統領に対するクーデターの計画があることを知りながら、あえて止めなかった」と、ケネディ大統領が事実上反ジェムクーデターを黙認したことを証言している[108] 上に、ケネディ大統領から上記のような訓令を受けたロッジ大使もマクナマラ国防長官と同様の証言を行っている。
いずれにしてもクーデターの発生とジェム大統領殺害の報告を受けたケネディ大統領は、「このクーデターにアメリカは関係していない」との正式声明を出すように指示した。
ジョンソン政権とミン政権・チュー政権
[編集]南ベトナムでゴ・ディン・ジェム大統領が倒されたクーデター事件のわずか3週間後に、アメリカでケネディ大統領暗殺事件が起こり、ケネディが死亡したため、副大統領のリンドン・ジョンソンがアメリカ合衆国大統領に昇格した。ジョンソンは、前任者のケネディが増強した「軍事顧問団」の規模を維持するだけにとどめた。またアメリカ政府は、クーデターにより南ベトナム情勢が安定することを期待していたが、その目論見は裏目に出る。クーデターは、反乱に参加した将校達の権力闘争を容認する結果となり、その後も南ベトナム政府内では13回ものクーデターが発生する。
親米的なミン大統領の軍事政権はアメリカ政府に歓迎されたものの、南ベトナム解放民族戦線との戦闘に注力しなかったことから南ベトナム軍内部の離反を招くこととなり、1964年1月30日にグエン・カーン将軍を中心とした勢力がクーデターを起こし、ミン大統領は隣国のタイ王国へと追放された。しかしミン元大統領は、追放された直後にカーン将軍の指示を受けて南ベトナムへ戻り2月8日に大統領の座に復帰する。
アメリカはその後もカーン将軍やミン大統領らの一派を全面的に支援したものの(en:Operation Quyet Thang 202、1964年4月27日 - 5月27日)、その後大統領に就任したカーン将軍は、南ベトナム解放戦線との和解の可能性を模索し始めたために南ベトナム軍の支持を失いまもなく大統領の座から去った末に、1965年2月25日にグエン・バン・チューら南ベトナム軍部強硬派によるクーデターにより失脚させられフランスへの亡命を余儀なくされる。その後同じく親米的な軍人であるグエン・カオ・キが首相に、チューが国家元首に就任(1967年9月の選挙で正式に大統領に就任)する。
カーン将軍の失脚を機に再度亡命したミン元大統領は1968年に帰国するが、強硬派のチュー政権を支持せず、北ベトナム政府および南ベトナム解放民族戦線に対しては強硬姿勢をとらない穏健派勢力として活動する。なお、ミン元大統領はその穏健派としての姿勢を買われ、最後の停戦交渉を行うことを目的に、ベトナム戦争終結前日の1975年4月29日に、1965年から10年間に渡り国家元首を経て大統領を務めたチューに代わり再び大統領に就任するものの、大統領就任翌日の4月30日にサイゴンが陥落、1日限りの大統領復帰となった上に、南ベトナム最後の大統領となりその後北ベトナムに抑留されることとなった[109]。
この様に、南ベトナムの軍や政府の高官が、たとえ国家が戦争状態に置かれている状態にあっても軍事クーデターによる権力獲得闘争に力を注ぎ、またアメリカから援助を受けた最新の兵器を装備した自軍の精鋭部隊の多くを、クーデター阻止のためにサイゴンに駐留させた(その場合、多くが次のクーデターの際に反乱側の実行部隊となった)ため、アメリカがいくら軍事援助をしても南ベトナム軍の戦闘力が強化されず、また士官から兵士に至るまで士気も上がらない状態になっており、この様な体たらくはベトナム戦争発生当時からサイゴン陥落まで一貫して続き、結果的に南ベトナム解放戦線と北ベトナムを利する結果となった。
トンキン湾事件
[編集]ジョンソンは、前任者のケネディが増強した「軍事顧問団」の規模を維持するだけにとどめた。しかし就任から9か月後の1964年8月2日と8月4日に、ベトナム沖のトンキン湾で発生した北ベトナム海軍の魚雷艇によるアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃(トンキン湾事件)が発生し、ジョンソンはこの報復として翌8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動(ピアス・アロー作戦)を行った。
さらにこの軍事行動と合わせて、議会に北ベトナムからの武力攻撃に対する「あらゆる措置を取る」権限を大統領に与えるように求め、8月7日に上下両院でこの「トンキン湾決議」が民主党と共和党の議員の圧倒的な支持で承認されて、ジョンソン大統領は実質の戦時大権を得た。
その後1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手し、8月4日の2回目の攻撃については、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカ軍と政府が仕組んだ捏造した事件であったことを暴露している。しかし捏造は8月4日の事件であり、8月2日に行われた最初の攻撃は、アメリカ海軍の駆逐艦を南ベトナム艦艇と間違えた北ベトナム海軍の魚雷艇によるものであることを、北ベトナム側も認めている。
ベトナムにおけるアメリカによる軍事行動が次第に拡大していく可能性を有しながら、ほとんどが楽観的に見ていた状況で、1964年11月3日にアメリカ大統領選挙の一般選挙が行われた。トンキン湾事件の直後であったが、この時点においては南ベトナムに送られたアメリカ軍事顧問団の死傷者数もそれほど大きくなく被害も少なかったこともあり、ベトナム政策が選挙の大きな争点となることはなかった。そしてジョンソン大統領は圧勝し、議会でも与党民主党が大勝して与党が多数派となって自信を得て、選挙で選ばれた大統領として1965年1月から新しい任期に入った。
ジョンソン政権の新しい任期においても、マクナマラ国防長官やディーン・ラスク国務長官、ジョージ・ボール国務次官、マクジョージ・バンディ国家安全保障担当補佐官など、ケネディ政権においてベトナムへの軍事介入拡大を推し進めた閣僚や側近は留任し、ベトナム戦争の泥沼にアメリカを引き摺り込むこととなった。
北ベトナム・中ソからの軍事援助
[編集]北ベトナムのベトナム労働党は第15回党大会を行った際、「南部における革命の基本的な方向は暴力を使用した革命であり、特殊事情、および現下の革命要請によれば、暴力使用路線は、軍事力と連動した形で帝国主義者の支配を転覆し、人民による革命的統治を築くため大衆の力を利用し、大衆の政治力に依存することを意味する」と結んでいたが、その5年後、本格的に南部に対する攻勢を高めていく。
アメリカによるベトナムにおける軍事活動が拡大を続ける中、1964年にソ連は北ベトナムへの全面的な軍事援助の開始を表明し、ソ連は軍事顧問団を派遣、1965年2月にはアレクセイ・コスイギン首相がハノイ入りした。これまで北ベトナム軍への軍事援助を行っていた中華人民共和国からは軽火器の供給は豊富にあったが、1970年代になるまで重火器の供給はほとんどなかったため[110]、ゲリラ的な攻撃しか行うことができなかった。これ以降ソビエト連邦から最新式の戦闘機や戦車、対戦車砲などの重火器の供給を受けることが可能になり、軍事力の継続的な増強が実現する。
やがてソ連と対立(中ソ対立)していた中華人民共和国も、ソ連による北ベトナム軍への軍事援助の増大に対抗し、1965年5月には、秘密裏に中国人民解放軍の軍事顧問団の派遣を行った。これ以降北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線の標的は、南ベトナム軍だけでなく、南ベトナムに派遣されているアメリカ「軍事顧問団」へも向いていく。
解放戦線の勢力
[編集]この時期に、アメリカ軍事顧問団は解放戦線の兵力についての分析を行っていた。1965年当時アメリカ軍の推定では、解放戦線の主力軍兵力は1961年1万7,000人、1962年2万3,000人、1963年2万5,000人、1964年3万4,000人でほぼ3年間に倍増し、この他の自衛民兵や地方の小部隊組織の総人数は1960年7,000人と見積もっていたのが1964年には10万6,000人に達すると推定されて、1964年時点での兵力は合計14万人と見ていた[注 4]。この背景には、1959年から1964年までの5年間で北から南へ4万4,000人ほどが送られたと見られている。そしてその大半がもともとの南出身者で、当時ベトナム労働党は戦後に北へ来た人材から南に戻して、やがて彼らが解放戦線の主軸になっていった[111]。
一方、解放戦線の拠点となった農村においては、1964年3月にマクナマラ国防長官がジョンソン大統領に提出した報告書では農村の40%が解放戦線の支配下にあると見なしていたが、翌1965年4月にはサイゴン政権自身が南の農地の75%が解放戦線側に入ったと見なしていた[112]。
北爆
[編集]1964年11月にはビエンホアの空軍基地が襲撃され5人の軍事顧問が死亡し、同クリスマスイブにはサイゴン市内のホテルで爆弾が仕掛けられて民間のアメリカ人2人が殺される。その後、ソ連のコスイギン首相が北ベトナムを訪問していた1965年2月7日に、プレイクのアメリカ軍事顧問団基地(キャンプ・ハロウェイ)が解放戦線によって攻撃され、駐留アメリカ軍将兵のうち7名が死亡し109名が負傷した[113]。この襲撃は、マクジョージ・バンディ大統領補佐官とホワイトハウス・アジア問題担当局長のチェスター・クーパーがアメリカの調査団としてサイゴンに到着した翌朝の出来事であったため、バンディはこれを北ベトナム政府からの挑発であると受け取り、この時に既に南ベトナムに派遣されていたウエストモーランド将軍と協議して軍事行動の強硬論に傾き[114]、これがリンドン・ジョンソン米大統領が北爆(北ベトナムに対する爆撃)を決断するきっかけとなった。しかし、当時のベトナム側は前線部隊と司令部が綿密に連携するための通信能力をもっておらず、この攻撃は第五軍管区の一指揮官が独自判断で行った、わずか30名での遊撃的作戦に過ぎなかったことが後に判明している[115]。
ローリング・サンダー作戦
[編集]ジョンソン大統領は即日、既にベトナム近海に派遣していたアメリカ海軍の攻撃空母「コーラル・シー」や「レンジャー」、「ハンコック」などを中心としたアメリカ海軍第7艦隊の艦載機を中心とした航空機で、首都のハノイやハイフォン、ドンホイにある兵員集結地などの北ベトナム中枢への報復爆撃、いわゆる「フレイミング・ダート作戦」を命令した。3月26日には、初の大規模な組織的爆撃(北爆)である「ローリング・サンダー作戦」を発令し、北ベトナム沿岸部の島々とヴィン・ソンなどにある北ベトナム軍の基地を、空軍のF-100やF-105などの戦闘爆撃機などで爆撃させた。
このような状況を受けて、北ベトナムはハイフォン、ホンゲイ等の重要港湾施設に必ず外国船を入港させておき、アメリカ軍によるあらゆる攻撃を防ぐ事に成功した。さらにはアメリカ軍による北ベトナム国内の空軍基地や飛行場への攻撃禁止は北ベトナム空軍に「聖域」を与えた。北ベトナム空軍に対してソ連から貸与された、MiG設計局MiG-17やMiG-19、MiG-21といったソ連製迎撃戦闘機は発着陸で全く妨害を受けなかったので、アメリカ軍機を相手に存分に暴れても損害は最小限に抑えられた。なお、これらのソ連からの貸与機の一部は、北ベトナム軍操縦士に操縦訓練を施すために派遣されたソ連人操縦士が操縦していたことが確認されている。
これに対して、アメリカ海軍航空隊の最新鋭機であるマクドネルF-4やF-105戦闘爆撃機の被撃墜が続出したことから(4月29日には、中華人民共和国の領空を侵犯したアメリカ海軍第96戦闘飛行隊のF-4Bが、中国人民解放軍空軍の戦闘機に撃墜されている)、精密誘導兵器をほとんど運用していなかった海軍航空隊や空軍の現場部隊からは「貴重な操縦士を大勢殺しておきながら何ら効果をあげられていないではないか」と苦情が相次ぎ、アメリカ合衆国国防総省も乏しい戦果の割に被害続出というコストパフォーマンスの悪さと操縦士の損失の多さを認め、1967年4月末には殆どの制限が撤廃された。
これは直ちに効果をあげ、その後北ベトナム軍は空軍基地や飛行場がアメリカ軍による大規模な爆撃を受けたために、迎撃戦闘機が不足するほどであった。アメリカ空軍は新鋭のF-111戦闘爆撃機の他、北ベトナムから「死の鳥」と言われたボーイングB-52戦略爆撃機(「ビッグベリー」改造を受けたD型が主力)を投入、ハノイやハイフォンなどの大都市のみならず、北ベトナム全土が爆撃と空襲にさらされることとなる。これに対してベトナム民主共和国は、ソビエト連邦や東欧諸国、中華人民共和国の軍事支援を受けて、直接アメリカ軍と戦火を交えるようになった。
なお、グアム島やアメリカ合衆国による沖縄統治下であった沖縄本島のアメリカ軍基地から北爆に向かうB-52爆撃機の進路や機数は、グアムや沖縄沖で「漁業操業」していたソ連や中華人民共和国のレーダー電波探信儀を満載した偽装漁船から、逐次北ベトナム軍の司令部に報告されていた。
その影響もあり、北ベトナム軍のミコヤンMiG-19やミコヤンMiG-21などの戦闘機や対空砲火、地対空ミサイルによるB-52爆撃機の撃墜数はかなりの数にのぼったが、強力な電波妨害装置と100発を超える爆弾搭載能力を持つアメリカ軍のB-52爆撃機による度重なる爆撃で、ハノイやハイフォンを始めとする北ベトナムの主要都市の橋や道路、電気や水道などのインフラは大きな被害を受け、終戦後も長きにわたり市民生活に大きな影響を残した。
また、これらのアメリカ軍による北ベトナムへの本格的な空爆作戦に対して、ホー・チ・ミンをはじめとする北ベトナム指導部は「アメリカ軍による虐殺行為だ」と訴え続け、後に西側諸国における国民の大規模な反戦運動が活発化していく。
経過
[編集]米軍上陸
[編集]ジョンソン大統領はトンキン湾決議に基づき、1965年3月8日に海兵隊3,500人を南ベトナムのダナンに上陸させた。そしてダナンに大規模な空軍基地を建設した。アメリカはケネディ政権時代より南ベトナム軍を強化する目的で、アメリカ軍人を「軍事顧問及び作戦支援グループ」として駐屯させており、その数は1960年には685人であったものをケネディが15,000人に増加させ、その後1964年末には計23,300名となったが、ジョンソンはさらに1965年7月28日に陸軍の派遣も発表し、ベトナムへ派遣されたアメリカ軍(陸軍と海兵隊)は1965年末までに「第3海兵師団」「第175空挺師団」「第1騎兵師団」「第1歩兵師団」計184,300名に膨れ上がった。こうして地上軍の投入により戦線が拡大していく[注 5]。
韓国軍・SEATO連合軍の参戦
[編集]1961年11月、クーデターにより政権を掌握した朴正煕国家再建最高会議議長はアメリカを訪問するとケネディ大統領に軍事政権の正統性を認めてもらうことやアメリカからの援助が減らされている状況を戦争特需によって打開すること、また共産主義の拡大が自国の存亡に繋がるという強い危機感を持っていたためにベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた[116]。ケネディ大統領は韓国の提案を当初は受け入れなかったが、ジョンソン大統領に代わると1964年から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた[116]。
1965年7月12日、韓国政府はベトナム派兵案を韓国国会に提出し、韓国国会は8月13日に派兵案を批准した[117]。1965年9月から10月にかけて大韓民国陸軍陸軍首都師団[118](通称:フィアース・タイガー、猛虎師団[119])の1万数千兵、および大韓民国海兵隊第2海兵旅団(通称:ブルー・ドラゴン、青竜師団)もベトナムに上陸した[119]。1966年9月3日には同陸軍第9師団(通称:白馬部隊)[注 6]もベトナムに上陸する[121]。
タイ王国やフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドなどの反共軍事同盟東南アジア条約機構 (SEATO) の加盟国も、アメリカの要請によりベトナムへ各国の軍隊を派兵したが、韓国軍はSEATO派兵総数の約4倍の規模で、アメリカ以外の国としては最大の兵力を投入した。厭戦気分が蔓延したアメリカ軍とは対照的に、韓国軍はパリ協定まで、高い士気を維持した。韓国軍は南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム正規軍に対して、それぞれ1:10、1:5という損害比で両勢力を圧倒し、民間人の虐殺も行われた(ベトナム戦争#韓国陸軍によるビンディン省攻撃と大量虐殺)。アメリカ陸軍特殊部隊群の一員としてベトナム戦争に従軍した三島瑞穂は、韓国軍について軍規の徹底、軍上層部の統率力という点で、アメリカ軍とは比較にできないほど優秀だったと言い、韓国軍は大任を果たして、満足感を堪能しながら故国に凱旋しただろうと述べている[122]。
その目的はアメリカを軍事支援することによって『ベトナム特需』と『派兵の見返り』として援助などを獲得する経済的な理由によるものであった。これにより、韓国は1966年3月に李東元外務部長官とブラウン駐韓米大使との間で、米国から韓国への軍事援助と経済援助を約束するブラウン覚書が締結され[123][124]、1965年から1972年にかけて韓国では「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」をスローガンにベトナム特需に群がり三星、現代、韓進、大宇などの財閥が誕生した[116]。韓国の外国為替獲得高の4割は戦争収益が占め、GDPは3倍にまで成長した[125]。アメリカはその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。また、戦争に関わった韓国軍人、技術者、建設者、用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)により韓国は漢江の奇跡と呼ばれる高度成長を果たした[126]。
5カ国の中で韓国軍に次ぐ戦死率のオーストラリア軍も激戦を繰り広げ、ベトナムに派遣した54両のセンチュリオン戦車全てが損害を受けるなどした。オーストラリアは、共産主義の拡大を警戒し、ベトナムでの戦争がオーストラリア本土に波及しないように、未然に防ぐことを目的として、積極的にベトナム戦争に参加していた(前進防衛政策)[127] が、オーストラリアの場合はベトナム反戦運動が盛んに行われたため、パリ協定を待たずに軍の撤退が始められた[128]。
1964年 | 1965年 | 1966年 | 1967年 | 1968年 | 1969年 | 1970年 | 1971年 | 1972年 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
韓国軍 | 2000 | 20620 | 25570 | 47830 | 50000 | 48870 | 48540 | 45700 | 36790 |
オーストラリア軍 | 200 | 1560 | 4530 | 6820 | 7660 | 7670 | 6800 | 2000 | 130 |
タイ軍 | 20 | 240 | 2200 | 6000 | 11570 | 11570 | 6000 | 40 | |
フィリピン軍 | 20 | 70 | 2060 | 2020 | 1580 | 190 | 70 | 50 | 50 |
ニュージランド軍 | 30 | 120 | 160 | 530 | 520 | 550 | 440 | 100 | 50 |
- アメリカ政府による韓国軍への給料支給
韓国軍はアメリカ政府より支給を受けていた。韓国軍兵士は米軍兵士の約半額の60ドルを月々に支給されていた[119]。韓国軍兵士は戦地ベトナムで月に平均10ドルを消費し、残額を母国へ送金していた[119]。そうした母国への送金は家族だけでなく韓国政府の国庫を潤していると韓国政府が発言したことも当時報道されている[119]。
北ベトナム軍陣地
[編集]一方、北ベトナム軍もアメリカ軍が主力を送り込んだことに対抗し、「ホーチミン・ルート」を使ってカンボジア国境から侵入、南ベトナム解放戦線とともに、南ベトナム政府の力が及ばないフォーチュン山地に陣を張った。北ベトナム軍は10月19日にアメリカ軍基地へ攻撃をかけたが、アメリカ軍には多少の被害が出たものの、人的被害は無かった。アメリカ軍は北ベトナム陣地を殲滅させようとするが、険しい山地は道路が無く、車両での部隊展開は不可能であった。ここで初めて実戦に投入されたのがベルエアクラフト製UH-1ヘリコプターだった。これは上空からの部隊展開(ヘリボーン)を可能にしたことで、この戦争の事実上の主力兵器として大量生産されることになる。
- イア・ドラン渓谷の戦い
1965年11月14日に、アメリカ軍はカンボジア国境から東11kmの地点にあるイア・ドラン渓谷を中心とした数カ所に、初めてベルエアクラフトUH-1を使って陸戦部隊を展開させた(イア・ドラン渓谷の戦い)。北ベトナム正規軍とアメリカ軍の戦闘はこれが初めてであったが、サイゴンのアメリカ軍司令部は北ベトナムの兵力を把握できていなかった。アメリカ軍基地襲撃の後でだらしなく逃げていく北ベトナム軍の兵士を見て、簡単に攻略できると考えていた。しかし、実際に戦った北ベトナム兵は陣を整え、山地の中を駆け巡り、予想以上の激しい抵抗をした。10月の小競り合いに始まったこの戦闘で、アメリカ軍は3,561人(推定)の北ベトナム兵を殺害したものの、305人の兵士を失った上(内、11月14日から4日間で234人)、この地を占領することができなかった。
サーチ・アンド・デストロイ(索敵殺害)作戦
[編集]アメリカはこの後、最盛期で一度に50万人の地上軍を投入し、ヘリボーン作戦や森林戦を展開する。村や森に紛れた北ベトナム兵や南ベトナム解放戦線のゲリラを探し出し、殲滅するサーチ・アンド・デストロイ作戦(索敵殺害作戦[119])は、ヘリコプターや航空機から放たれたナパーム弾などによる農村部への無差別攻撃や、韓国軍兵士による村民への暴行、殺戮、強姦、略奪を引き起こすこととなった。アメリカ軍はゲリラ戦術のエキスパートである蔡命新に率いられた韓国軍による対ゲリラ戦術に対して批判的であったが、後に韓国軍の戦術を採用するようになった[130]。
- 1966年、en:Operation Attleboro(ビンズオン省Dau Tieng、9月14日 - 11月24日)。
- 1967年、en:Operation Junction City(タイニン省、2月22日 - 5月14日)。
- 1967年、en:Operations Malheur I and Malheur II(クアンガイ省、5月11日 - 8月2日)。
韓国陸軍によるビンディン省攻撃と大量虐殺
[編集]- 1965年10月にベトナムに上陸した韓国軍は同年12月から翌1966年1月までにビンディン省プレアン村、キンタイ村などを掃討、九つの村には化学兵器を使用し、また同時期にプウエン省のタオ村で女性市民42人全員を殺害した[119][131]。
- 1966年1月1日から4日にかけてブン・トアフラとヨビン・ホアフラ地方では市民の財産を略奪したり、カオダイ教寺院を焼き払い、仏教寺院から数トンの貨幣を横領した[119]。ナムフュン郡では老人と女性7人を防空壕のなかでナパームとガスで殺害し、アンヤン省の三つの村では110人、ポカン村では32人以上の市民を虐殺した[119]。
- さらに韓国軍は1966年1月11日から19日にかけて、ジェファーソン作戦の展開されたビンディン省で400人以上のベトナム人市民[119] を、1月23日から2月26日にかけては同ビンディン省で韓国軍が市民1,200人を虐殺した(タイヴィン虐殺)。
- 1966年2月にはベトナムビンディン省タイビン村で韓国軍猛虎部隊が住民65人を虐殺(タイビン村虐殺事件[116])、さらに2月26日には同ビンディン省で住民380人を虐殺したゴダイの虐殺が発生する。韓国軍は女性137人、老人40人、子供76人を防空壕のなかへ押し込め殺害したり、目を潰したといわれる[119]。
- 1966年3月26日から28日にかけて韓国軍はビンディン省の数千の農家と寺院を炎上させ、老若とわず女性を集団強姦した[119]。同年8月までに韓国陸軍はビンディン省における焦土作戦を完了した[119]。
- 1966年9月3日には韓国陸軍第9師団(通称:白馬部隊)[注 6]もベトナムに上陸する。
- 同1966年10月には共同作戦中の米軍と韓国軍(猛虎師団、青龍師団、白馬師団等)が、ベトナム市民の結婚の行列を襲撃し、花嫁を含め7人の女性を強姦し、宝石を奪い、3人の女性を川の中へ投げ込む暴行事件が発生[119]。その後、メコン川流域で19人の少女の遺骸が発見される[119]。
一連の韓国軍のベトナムにおける活動について韓国政府は1967年5月、アメリカが与えてくれた援助に対する「お返し」の意味と、またこのような韓国軍の活躍は、韓国民に対して韓国がアジア平定に寄与するという誇りの感情を与えるもので、またアメリカとの交渉においても韓国の立場を向上させるものである、と記者会見で答えている[119]。アメリカ陸軍特殊部隊群の一員としてベトナム戦争に従軍した三島瑞穂は、ソンミ事件などの不祥事については、目に見えないゲリラが相手なので少々のラフプレイは仕方ないことだったと述べている[122]。2015年10月の朴大統領訪米に際して、韓国軍の被害にあったベトナム人女性らが韓国政府の謝罪と賠償を求めて『ウォール・ストリート・ジャーナル』に意見広告を掲載した[132][133]。
- 韓国海兵隊による「索敵殺害」
- その後、韓国海兵隊(青龍師団)が1968年2月12日にクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村の村民79人を殺害(フォンニィ・フォンニャットの虐殺)、同2月25日には同省ハミ村で村民135人を虐殺する(ハミの虐殺)。
ソンミ村虐殺事件と反戦運動
[編集]- 1968年3月16日にはアメリカ陸軍第23歩兵師団第11軽歩兵旅団のウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊がクアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落において無抵抗の村民504人を無差別射撃などで虐殺するソンミ村虐殺事件が発生し、この事件が報道されるとアメリカ国内で反戦運動が激化する。
その後アメリカは、北から南への補給路(ホーチミン・ルート)を断つため隣国ラオスやカンボジアにも攻撃を加え、ラオスのパテート・ラーオやカンボジアのクメール・ルージュといった共産主義勢力とも戦うようになり、戦域はベトナム国外にも拡大した。
アメリカ空軍はこれらの地域を数千回空爆した他、ジャングルに隠れる北ベトナム兵士や南ベトナム解放戦線のゲリラをあぶり出すために枯れ葉剤を撒布した。ラオスではこのとき投下されたクラスター爆弾の不発弾が大量に埋まっており、戦争終了後も住民に被害を与え続けている。
チュー大統領就任
[編集]戦争の拡大により混沌とする状況下にあった中、1967年9月3日に南ベトナムにおいて大統領選挙が行われ、1965年6月19日に発生した軍事クーデター後に南ベトナムの「国家元首」に就任し、実質的な大統領の座にあったグエン・バン・チューが、全投票数の38パーセントの得票を得て正式に南ベトナムの大統領に就任した。
なお、北ベトナム政府はこの選挙結果に対して「不正選挙である」と反発し、事実上選挙結果を受け入れない意思を示したが、アメリカは、「南ベトナムにおける健全な民主主義の行使」だとこの選挙結果を歓迎した。
以後、強烈な反共主義者であるチュー大統領の下、南北ベトナムの対立は激しさを増してゆく。なお、チューは1971年に再選され、1975年4月のサイゴン陥落直前まで南ベトナム大統領を務めた。
反戦運動
[編集]1960年代の後半になると、戦争の激化とともに戦地から遠く離れているアメリカ本国にもテレビ報道やニュース映画フィルムにより、多くの国民が戦闘の場面を、その日のうちに視聴することで、事実を目の当たりにする時代に入っていた。
「戦争当事国」のアメリカ合衆国では、次第に反戦運動が高揚していた。1963年に奴隷解放100周年を迎え、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を中心にした、黒人(アフリカ系アメリカ人)による人種差別撤廃闘争も、この時期に活発化して、「長く暑い夏」に都市での暴動が頻発するようになったが、当初はベトナム戦争に対する反対運動は抑えていた。
しかし1966年に、アメリカ合衆国上院の外交委員会(フルブライト委員長)でベトナム公聴会が開かれて、ジョンソンのベトナム政策は過剰介入だとするジョージ・ケナンの批判が出て、1967年に入るとベトナム戦争への戦費拡大につれ、福祉予算が圧縮されることに不満を抱いたキング牧師らの公民権運動の指導者は、公然と反戦の声を出し始めた。
これらの運動に、さらに大学生の学生運動が結びつき、1967年4月に全米で広汎な人々が反戦集会を組織して、やがて反戦運動が全米を覆い、ニューヨークでは大規模な反戦デモ行進が行われて、同年秋の10月21日に首都ワシントンD.C.で最大規模の反戦集会(ペンタゴン大行進)が開催された。さらに翌1968年1月の「テト攻勢」(後述)によって、反戦運動は大きく盛り上がった。
ジョンソン政権は、戦場におけるアメリカ兵の士気の低下、国内外の組織的、非組織的な反戦運動と、テレビや新聞、雑誌の各種メディアによる、戦争反対の報道に苦しむことになった。除隊したベトナム帰還兵による反戦運動も盛り上がりを見せた。1967年にはベトナム反戦帰還兵の会(VVAW)が結成された。VVAWは最盛期には30,000人以上を組織化し、ロン・コーヴィック(『7月4日に生まれて』の著者)やジョン・ケリー(2004年民主党大統領候補者)のような負傷兵が中心となって運動が広がった。
そして、ベトナム戦争の最盛期だった1968年初頭には最大で54万9千人のアメリカ合衆国軍人が南ベトナム領土内に駐留し、ベトナム周辺の海上に展開する海軍や、フィリピン、大韓民国、日本、グアム、ハワイ、米本土西海岸などの後方基地からも含めて大軍が投入されたが、ソ連や中華人民共和国による軍事支援をバックに、地の利を生かしたゲリラ戦を展開する北ベトナム軍および南ベトナム解放民族戦線と対峙するアメリカ軍・南ベトナム軍・連合軍にとって戦況の好転はみられなかった。
1967年11月に、それまで北爆を推進してきた、ベトナム戦争の最高責任者であったロバート・マクナマラ国防長官が辞意を表明した。彼はその前年に北爆を縮小するよう大統領に進言し、1967年5月には解放民族戦線を含めた連立政権を受け入れるべきと主張する[134] までになり、この時点で既にアメリカ合衆国政府内でも、ベトナム戦争の続行に疑問の声が出るようになった。しかしジョンソン大統領は依然として軍事強化の路線を変えなかった。
兵士の間にも厭戦機運が芽生え始め、1967年10月26日には西ベルリンの米軍司令部内からベトナム兵役から逃れ、カナダや北欧へ亡命するよう呼びかけるビラが出回っていたことが判明した[135]。また、この頃にはベトナムに派遣された兵士の中から逃亡する者も増え始め、常時40-50人の逃亡兵が発生していた[136]。
テト攻勢
[編集]北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、旧正月(テト)休戦を南ベトナム軍とアメリカ軍に打診したが、体勢を立て直す時間を与えるだけだとして拒否されたため、旧正月下の1968年1月29日の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した。南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵はわずか20人で「要塞」とも称された、サイゴン市のアメリカ合衆国大使館を一時占拠し[注 7]、その一部始終がアメリカ全土に生中継された。また、南ベトナムの首都サイゴンにあるアメリカ軍の放送局も占拠され爆破された。
サイゴン市内やダナン市内などの基地に急襲を受けた南ベトナム軍とアメリカ軍は、一時的に混乱状態に陥ったものの、すぐに体勢を立て直し反撃を開始して、物量で圧倒的に劣る南ベトナム解放民族戦線は壊滅状態に陥り、2月1日にジョンソン大統領はテト攻勢は失敗したと声明した。しかし解放民族戦線側は6万7,000人以上が参加して、サイゴン、ダナン、フエの他に南ベトナム44省の内34の省都、64の地方都市、そして米軍基地とサイゴン軍基地が攻撃された。後にこのテト攻勢の犠牲者は、アメリカ軍3,895人、南ベトナム軍兵4,900人、解放民族戦線5万8,373人であったとアメリカ軍は明らかにしている[137]。アメリカ軍の1968年のベトナム戦争の死者が1万2,000人であり、その30%余りをこのテト攻勢のわずかな期間に失ったこの事実はしばらくは明らかにされなかったが、このテト攻勢でジョンソン政権が受けたダメージは大きく、アメリカ国内でのベトナム戦争に対する見方が変わり、その後の行方に影響を与えた。
また、テト攻勢の最中に南ベトナムのグエン・カオ・キ副大統領の側近であるグエン・ゴク・ロアン[注 8] 警察庁長官が、サイゴン市警によって逮捕された南ベトナム解放民族戦線の将校のグエン・ヴァン・レムを路上で射殺する瞬間の映像がテレビで全世界に流された(グエン・ヴァン・レムの処刑)。まだ裁判すら受けていない彼を、南ベトナムの政府高官自らが報道陣のカメラを前にして射殺する様子は、世界中に大きな衝撃を与えた。この瞬間を撮影したアメリカ人報道カメラマンのエディー・アダムスは、その後ピュリッツァー賞の報道写真部門賞を受賞した。
テト攻勢におけるこれらの実際の戦況とアメリカ政府の発表との間のギャップや、現実の戦闘を目の当たりにして、ベトナム戦争(と南ベトナム政府)に対するアメリカの世論が大きく変化し始めた。またテト攻勢で南ベトナム解放民族戦線の損失も大きく、北ベトナムも援助を強化して、その後のベトナム戦争は、南ベトナム政府軍・アメリカ軍と北ベトナム正規軍中心の戦いとなっていった。
フエ事件
[編集]テト攻勢時に一時的に南ベトナム解放民族戦線の支配下に置かれたフエ(なお、当時の新聞表記は「ユエ」である)では、1月30日から翌月中旬にかけて、南ベトナム解放民族戦線兵士による大規模な政府関係者や市民への虐殺事件「フエ事件」が発生した。この事件はテト攻勢の実施に合わせて半ば計画的に行われたものであり、事前に虐殺相手の優先リストまで用意されていたと伝えられている。犠牲者は、南ベトナム政府の役人や軍人・警察官だけでなく、学生やキリスト教の神父、外国人医師などの一般人にまで及び、アメリカ軍による発表によれば犠牲者全体の総数は2000人以上であるとされている。
テト攻勢の失敗が報じられる中、フエでは述べ25日間にわたってアメリカ軍と南ベトナム解放民族戦線の攻防戦が続けられていた。
アメリカの国内の混乱と北爆停止
[編集]すでに、アメリカ軍が介入してから3年が過ぎて、一定の戦果もなく、ずっと兵力を暫時投入してエスカレーションさせて戦闘が拡大するばかりだが、まだアメリカが優勢であるという一般的な見方が崩れて懐疑的となり、それまで苦しくてもベトナム戦争を支持していた層もジョンソン大統領の対応のまずさを批判するようになった。
テト攻勢後、1968年2月にアメリカのジャーナリストで「アメリカの良心」ともいわれて人気のあったウォルター・クロンカイトが「民主主義を擁護すべき立場にある名誉あるアメリカ軍には、これ以上の攻勢ではなく、むしろ交渉を求めるものであります」と厳しい口調で発言して戦争の継続に反対を表明、アメリカの世論に大きな衝撃を与えた。ジョンソン大統領は、「クロンカイト(の支持)を失うということは、アメリカの中産階級(の支持基盤)を失うということだ」と嘆いたという。その後保守派の多くもベトナム戦争の継続に懐疑的になっていった。
1968年は大統領選挙の年で、ジョンソンは2回目の大統領選への出馬を目指していた。テト攻勢後の3月にニューハンプシャー州の民主党予備選ではユージーン・マッカーシーに対して勝利したが、得票率で50%を割り、この結果を見てケネディ大統領の弟ロバート・ケネディが大統領選への出馬を表明して、世論調査で自身への支持率が最低を記録し、政治的に苦しい立場に立たされた。またケネディ政権においてベトナムへの軍事介入を自らの「分析」を元に積極的に推し進め、ジョンソン政権でもアメリカ軍の増派を推し進めたものの、1966年頃から北爆の中止を求めてジョンソン大統領と意見が対立し前年11月に辞意を表明したマクナマラ国防長官が2月29日に辞任した。そして後任のクラーク・クリフォード国防長官は就任早々、ウエストモーランド司令官からの20万人増派の要求を受けて省内でベトナム戦争についての意見をまとめて、今後のベトナム政策の全面見直しをジョンソンに提言して、もはや兵力を増派して軍事面を強化することができない局面に至った。
3月31日にジョンソン大統領は、テレビによる演説で北爆の部分的停止と、北ベトナムに対して無条件での交渉を呼びかけて、民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。理由として、ベトナム戦争に対するアメリカ国内の世論が分裂して、国論の統一に残りの任期を費やすことを挙げた。
反戦集会は連日全米各地で巻き起こっていたが、この盛り上がりに大きな影響を与えた公民権運動指導者のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、4月4日に白人のジェームズ・アール・レイに遊説先のテネシー州メンフィス市内のホテルで暗殺される。さらに、公民権運動団体などを中心とした支持を受けて、民主党の大統領予備選に出馬し優位に選挙戦を進めていたロバート・ケネディが、カリフォルニア州ロサンゼルス市内のホテルで遊説中の6月5日に、パレスチナ系アメリカ人のサーハン・ベシャラ・サーハンに暗殺された。
相次ぐ暗殺事件に続いて、8月26日から29日にかけて、民主党の大統領候補を指名するための党大会がシカゴ市内のホテルで行われた。シカゴ市内では学生を中心に大規模かつ暴力的な反戦デモが行われたが、ベトナム戦争推進派のデモと衝突した上、リチャード・J・デイリー市長の指示により、市警官隊がデモ隊に対して暴力的な弾圧を行い多数が逮捕された。ジョンソン大統領は自らの党大会であるにもかかわらず、会場内外における混乱を避けるため出席することはかなわなかった。このように国内情勢が混乱する中、ジョンソン大統領は1968年10月に北爆を全面停止した。この間、ベトナムは中国やソビエト連邦の支援の元で兵站や装備の調達やインフラの整備を行ったがアメリカ以外の空軍により度々猛攻を受けた。
ニクソン政権
[編集]大統領選本戦では、民主党はユージーン・マッカーシーやジョージ・マクガヴァンを破り大統領候補に選出されたヒューバート・ホレイショ・ハンフリーを候補に立てて戦ったものの、ベトナムからのアメリカ軍の「名誉ある撤退」と、反戦運動が過激化し違法性を強めていたことに対し「法と秩序の回復」を強く訴えた共和党選出のリチャード・ニクソンに敗北し、1969年1月20日にニクソンが大統領に就任した。
ニクソン大統領は、地上戦が泥沼化しつつある中で、人的損害の多い地上軍を削減してアメリカ国内の反戦世論を沈静化させようと、このとき54万人に達していた陸上兵力削減に取り掛かり、公約どおり、8月までに第一陣25,000名を撤退させ、その後も続々と兵力を削減した。
なお、就任以前から段階的撤退を訴え、大統領選挙時には「名誉ある撤退を実現する"秘密の方策"がある」と主張していたニクソン大統領は、就任直後からヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官に、北ベトナム政府との交渉(パリ和平会談)を開始させた。
- サイレント・マジョリティ
民主党大会の際のシカゴ市内における混乱が象徴するように、反戦運動が過激化していたことに対して、「法と秩序の回復」を訴え当選したリチャード・ニクソンは、「沈黙した多数派層(サイレント・マジョリティ)」に対して行動を呼びかけた。ニクソンの支持母体は、アメリカにおけるマジョリティ(多数派)である、保守的な思想を持つブルーカラーを中心とした白人保守派層が中心であり、軍に徴兵されベトナムに派遣される下級兵士の多くは、彼らそのものや彼らの子供であった。彼らの多くは、徴兵猶予などでベトナムへの派兵を免れることのできる比較的裕福な大学生や、徴兵されることのない都市部のホワイトカラーのリベラル層やインテリ層、既存の概念を否定しつつ自らは巧みに徴兵を逃れようとする反体制的なヒッピー、そしてこれらを中心に過激化する反戦運動に反感を持っていた[注 9]。彼らはニクソンの訴えに応じて、こうした白人保守派層の巻き返しがあり、それらがニクソン大統領の当選につながった。しかしニクソン政権の時代に入っても、カンボジアやラオスへの侵攻、ジョンソン時代を上回る北爆の強化で、ニクソンはアメリカ軍の撤退を進めながら逆に戦線が拡大することもあり、1973年のベトナム撤退まで反戦運動が収まることはなかった。
この年の7月にはアポロ11号が月面に降り立ち、世界の目は泥沼のベトナムから宇宙へと移り、10月には再び反戦デモが発生したが、それはローソクに火を灯しながら行進を行う、静かなものに変わりつつあった。
中ソ対立の激化とデタント
[編集]ベトナム戦争においては双方ともに北ベトナムを支援していたものの、ソビエト連邦と中華人民共和国の間では関係が悪化していた。中ソ対立により両国間の政治路線の違いや領土論争をめぐって緊張が高まり、中華人民共和国内で文化大革命が先鋭化した1960年代末には、4,380kmの長さの国境線の両側に、658,000人のソ連軍部隊と814,000人の中国人民解放軍部隊が対峙する事態になった。
1969年3月2日に、ウスリー川の中州・ダマンスキー島(珍宝島)で、ソ連側の警備兵と中国人民解放軍兵士による衝突、いわゆる「ダマンスキー島事件」が起こった。さらに7月8日には中ソ両軍が黒竜江(アムール川)の八岔島(ゴルジンスキー島)で武力衝突し、8月にはウイグルでも衝突が起きるなど、極東および中央アジアでの更なる交戦の後、両軍は最悪の事態に備え核兵器使用の準備を開始した。
このような状況を受けて、レオニード・ブレジネフ書記長率いるソ連は、急激に対立の度を増していた中華人民共和国を牽制する意味もあり、アメリカとの間の緊張緩和を目論み、直接交渉に入ることとなる。また、就任以来東西陣営の融和進展を模索していたニクソン大統領もこれを積極的に受け入れ、11月からは戦略兵器制限交渉の予備会談が行われ、1970年4月からは本会談に入るなど、米ソ間の関係は緊張緩和(デタント)の時代に入る。
ホー・チ・ミン死去
[編集]フランスの植民地時代から、ベトナムの独立と南北ベトナム統一の指導者として活発に活動していた北ベトナムの最高指導者であるホー・チ・ミンは、1951年のベトナム労働党主席への就任後は、第一次インドシナ戦争の指導や日常的な党務、政務は総書記(第一書記)および政府首脳陣、軍部指導者などに任せ、国内外の重要な政治問題に関わる政策指針の策定や、党と国家の顔としての対外的な呼びかけに精力を集中し、東ドイツや中華人民共和国などの友好国を訪問するなど、事実上北ベトナムの精神的指導者となっていた。
戦争指導や政務の第一線の地位からは退いたものの、ベトナム戦争の勃発後も、ソ連や中華人民共和国などの共産圏を中心とした友好国からの軍事的支援や、西側諸国の左派勢力や左派メディアを通じて反戦・反米運動への支援を得るために、北ベトナムを訪れたイタリア共産党のエンリコ・ベルリンゲル党首や、中華人民共和国の周恩来首相と会談するなど、内外において積極的に活動して、対外的にも北ベトナムを代表する地位を占めていたが、1969年9月に突然の心臓発作に襲われ、ハノイの病院にて79歳の生涯を閉じた。南北ベトナム統一を説いていた精神的指導者の突然の死は、戦時下の北ベトナム国民をより強く団結させる結果を生んだ。
ホー・チ・ミンは中ソ対立による国際共産主義運動の分裂を深刻に憂慮していた。中ソ対立の影響により激化していたベトナム労働党内の「中華人民共和国派」と「ソ連派」の路線対立は、ホー・チ・ミンの死去により「ソ連派」の優勢が確定した。以後北ベトナムは、テト攻勢を境とした自軍の戦闘スタイルの変化やアメリカ軍による北爆の強化へ対応するため、ソ連への依存を強めていった。