今川氏睦
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛文8年(1668年) |
死没 | 元禄12年6月25日(1699年7月21日) |
改名 | 範朝→氏勝→氏睦 |
別名 | 彦太郎、吉太郎、刑部(通称) |
戒名 | 高徳院殿傑堂英公大居士[1] |
墓所 | 東京都杉並区和田の長延寺 |
官位 | 従五位下、侍従、刑部大輔、丹後守 |
幕府 | 江戸幕府高家 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
氏族 | 品川家[注釈 1]→今川家 |
父母 | 父:品川高寛、養父:今川氏堯 |
兄弟 | 氏睦、遠山頼直養女、品川高清、一色定尚室 |
妻 | 正室:北条氏平の娘[注釈 2] |
子 | 養子:範高 |
今川 氏睦(いまがわ うじみち)は、江戸時代前期の高家旗本。一門の品川家から養子に迎えられて家督を継ぎ、高家職(奥高家)に就任した。今川家15代当主[注釈 3]。
生涯
[編集]寛文8年(1668年)、旗本品川高寛の長男として生まれる。延宝元年(1673年)、今川氏堯の死に際して末期養子となり、12月11日に6歳で家督を相続する。
延宝3年(1675年)10月7日、将軍徳川家綱に御目見する。天和3年(1683年)7月13日[2]、北条氏平の娘と婚姻する。元禄元年(1688年)11月14日、高家職(奥高家)に就任する。このとき、従兄弟(血縁上は従兄弟の子にあたる)品川伊氏も同時に高家職となっている。12月15日、従五位下・侍従に叙任、刑部大輔を称し、後に丹後守に改める。
元禄2年(1689年)閏1月15日に小姓に転任するが、閏1月26日に高家職に復帰する。徳川綱吉の時代には、こうした短期間での人事異動や、制度(高家の家柄の者が就任する役職は高家職のみ)に従わない人事がよく見られた。高家職復帰後は伊勢神宮・日光東照宮への代参使や公卿の迎接にあたっている。
元禄6年(1693年)10月13日、再び御小姓に転任するが11月23日に解任、高家職にも戻ることなく、表高家衆に列する。
元禄12年(1699年)6月25日死去、享年32。氏睦には子女がなかったため、伊氏の子の範高を末期養子に迎えた。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第九十四
- 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 品川家は今川氏真の次男高久が創始した家で、高久の次男高寛は分家を立てた。氏睦の養父となった氏堯は高久の娘と岡山弥清の子であるので、氏睦は氏堯の従弟にあたる。
- ^ 観泉寺過去帳によれば元禄7年(1694年)6月晦日[2]、『今川系図』によれば5月晦日に没した。法号は緑樹院殿陰草影池大姉[3]。
- ^ 家祖・国氏から数えた代数。ただし、14代氏堯以降直系の子孫ではない。