依田道長
依田道長 よだ どうちょう よだ みちなが | |
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生年月日 | 1845年2月2日 |
出生地 | 日本 甲斐国山梨郡下井尻村 (現・山梨県山梨市) |
没年月日 | 1923年8月3日(78歳没) |
所属政党 | 自由党 |
選挙区 | 山梨県第2選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1894年 - 1897年12月25日 |
山梨県会議員 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1882年 - ? |
依田 道長(よだ どうちょう[1] / みちなが[2]、1845年2月2日(弘化元年12月26日[1][3])- 1923年(大正12年)8月3日[1][2])は、幕末から大正期の豪農[1]、実業家、政治家。衆議院議員。幼名・熊弥太[4][5]。
経歴
[編集]甲斐国山梨郡下井尻村[1](山梨県[2]東山梨郡日下部村[6]、日下部町[3]を経て現山梨市[1]下井尻)で、豪農・依田帯刀の長男として生まれる[3][4][5]。元治元年(1864年)新徴組に加わるが[4][5]、その後帰郷し[5]、新徴組取締の山岡鉄太郎(山岡鉄舟)に入門し撃剣を学んだ[4][5]。上黒駒村(現笛吹市)の武藤藤太と国事に奔走し、勤王運動に加わった[1][4][5]。
明治維新後、明治5年(1872年)下井尻村戸長に、1876年(明治9年)学区取締総理に就任[1][2][4][5][6]。1880年(明治13年)峡中同進会員となり自由民権運動に参画[1][7]。1881年(明治14年)入会山林原野の官有地編入反対運動では中心的な役割を果たした[1][5][8]。
1882年(明治15年[注釈 1])山梨県会議員に選出され2期在任[1][2][4][5][6]。衆議院議員には第3回[9]、第4回総選挙で当選し[10]、連続2期在任した[1][2][6]。第5回総選挙では河口善之助に候補を譲り引退した[4]。
国政選挙歴
[編集]- 第2回衆議院議員総選挙(山梨県第2区、1892年2月、自由党)次点落選[9]
- 第3回衆議院議員総選挙(山梨県第2区、1894年3月、自由党)当選[9]
- 第4回衆議院議員総選挙(山梨県第2区、1894年9月、自由党)当選[10]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『山梨県人物誌 初編』190頁では明治14年12月。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 『山梨百科事典 創刊120周年記念版』1040頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』715頁。
- ^ a b c 『甲州古今人物辞書』51頁。
- ^ a b c d e f g h 『日本現今人名辞典』よ1-2頁。
- ^ a b c d e f g h i 『山梨県人物誌 初編』187-191頁。
- ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』486頁。
- ^ 『峡中自由諸名士略伝』38-39頁。
- ^ 『峡中自由諸名士略伝』39頁。
- ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』29頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』89頁。
参考文献
[編集]- 長坂啓三『峡中自由諸名士略伝』石川一、1884年。
- 平野文編『山梨県人物誌 初編』平野文、1889年。
- 『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1900年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 川手秀一編『甲州古今人物辞書』山梨協会本部、1938年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 山梨日日新聞社編『山梨百科事典 創刊120周年記念版』山梨日日新聞社、1992年。