分部嘉高

 
分部嘉高
時代 江戸時代前期
生誕 慶安元年9月19日1648年11月4日
死没 寛文7年6月12日1667年8月1日
別名 万千代[1]、式部(通称)[1][2]
戒名 江雲院殿三峯宗関大居士
墓所 滋賀県高島市大溝の円光寺
官位 従五位下若狭守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱
近江大溝藩
氏族 分部氏
父母 分部嘉治池田長常次女
兄弟 女子(一柳直治室)、嘉高
有馬康純
養子:信政
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分部 嘉高(わけべ よしたか[1][2])は、江戸時代前期の大名近江国大溝藩3代藩主。官位従五位下若狭守

生涯

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慶安元年(1648年)9月19日[2]、2代藩主・分部嘉治の長男として誕生[1][2]。母は備中松山藩主池田長常の娘[1]

明暦4年(1658年)7月9日、父の嘉治が妻の叔父の池田長重と対談中に刃傷沙汰となり、長重はその場で斬殺、嘉治も傷がもとで翌日死亡するという事件が発生する[1]。このため11歳の嘉高がその跡を継ぐこととなった[2]。同年(万治元年[注釈 1])の閏12月2日に遺領相続が認められ[3]、同10日に徳川家綱に御目見[3]。この際、父が遺した青江の刀を家綱に献上した[3]。万治3年(1660年)12月28日、従五位下若狭守に叙任[3]

寛文2年(1662年)5月1日[注釈 2]寛文近江・若狭地震が発生し、琵琶湖西岸から若狭地方に大きな被害を出した[4]。大溝での震度は6以上と推定され[5]、大溝領内で家屋敷の倒壊1022軒、死者30名余の被害が報告されている[6]。大溝藩は領内の被害が甚大であることを理由として、前年秋に命じられていた仙洞御所の作事手伝い[注釈 3]を5月11日に免除された[8][注釈 4]。地震発生時点で仙洞御所の工事は未実施であり、大溝藩は作事手伝いのために準備した資金や人員[注釈 5]を城下及び領内の復興に回したと考えられる[7]

寛文3年(1663年)8月には、越前の真宗高田派の真教・専誉父子を預けられる[3][注釈 6]。寛文5年(1665年)、初めて領国に入る[3]

寛文6年(1666年)、藩領内において大洪水のために凶作となると、嘉高は所持していた郷義弘の名刀を4代将軍・徳川家綱に献上し、その見返りとして得た黄金400枚を領内の復興と窮民救済に当てた[2]。この寛文6年には「大溝酒造仲間」16株が成立する[9]

寛文7年(1667年)6月12日、死去[3][2]。享年20[2][注釈 7]。嘉高には嗣子がなく、末期養子として母のいとこにあたる分部信政(旗本池田長信の三男)が迎えられた[3]

系譜

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関連略系図
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
分部光信1
 
 
 
池田長常池田長信池田長重
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
嘉治2
 
 
 
分部信政4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
嘉高3
 
 
 
 
 
 
 
 
 

  • 数字は分部家継承順。

特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 7月23日に改元
  2. ^ グレゴリオ暦1662年6月16日。
  3. ^ 万治4年(1661年)1月15日に禁裏御所と仙洞御所が焼失したことにともなう再建工事[7]
  4. ^ 大溝藩に代わり、5月14日に備中庭瀬藩主戸川秀安に仙洞御所作事手伝いが命じられた[8]
  5. ^ 仙洞御所の作事手伝いには、1万石あたり人夫100人を拠出することとなっていた[7]
  6. ^ 16世紀初頭以来150年余り、一身田専修寺(伊勢国)と熊坂専修寺(越前国)の間で本山争いが続いていた。真教・専誉父子は熊坂専修寺の流れを汲み、一身田専修寺との訴訟に敗れた。真宗高田派参照。
  7. ^ 『寛政譜』の翻刻版(国民図書版、新訂版とも)では慶安元生まれとした上で寛文7年の死去時の年齢を「年二十三。」とするが[3]、享年「二十」のあとに法号「三峯宗関」が続いているもので[10]、区切り誤り(「年二十。三峯宗関江雲院と号す」)である。

出典

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  1. ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二「分部」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.6、『新訂寛政重修諸家譜 7』p.6。
  2. ^ a b c d e f g h 分部嘉高”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年1月5日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第三百九十二「分部」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』p.7、『新訂寛政重修諸家譜 7』p.7。
  4. ^ 中央防災会議 2005, p. 3.
  5. ^ 中央防災会議 2005, p. 5.
  6. ^ 中央防災会議 2005, p. 135, 137.
  7. ^ a b c 中央防災会議 2005, p. 137.
  8. ^ a b 中央防災会議 2005, pp. 136–137.
  9. ^ 2019年大溝400年すごろく」『広報たかしま』2019年1月、16-17頁、2022年1月7日閲覧 [信頼性要検証]
  10. ^ 国立国会図書館所蔵筆写本該当箇所
  11. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百六十七「池田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.429

参考文献

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外部リンク

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