城北村 (大阪府)
しろきたむら 城北村 | |
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廃止日 | 1925年4月1日 |
廃止理由 | 編入合併 西成郡・東成郡計17町27村→大阪市 (大阪市第二次市域拡張) |
現在の自治体 | 大阪市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 大阪府 |
郡 | 東成郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 | 8,800人 (国勢調査、1920年) |
隣接自治体 | 大阪市(北区)、西成郡豊崎町、西中島町、豊里村、東成郡古市村、榎並町 |
城北村役場 | |
所在地 | 大阪府東成郡城北村大字中 |
座標 | 北緯34度43分17秒 東経135度32分33秒 / 北緯34.72131度 東経135.54244度座標: 北緯34度43分17秒 東経135度32分33秒 / 北緯34.72131度 東経135.54244度 |
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城北村[1](しろきたむら)は、大阪府東成郡にあった村。現在の大阪市旭区と都島区の各一部にあたる。
地理
[編集]歴史
[編集]村名は榎並城跡の北に位置することに由来する。
沿革
[編集]- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、東成郡江野村、中村、荒生(なぎ)村、赤川村が合併して城北村が発足。大字中に村役場を設置。
- 1897年(明治30年)4月1日 - 東成郡都島村大字毛馬、友渕のそれぞれ全域および大字善源寺の一部を編入し、江野、中、荒生、赤川、毛馬、友渕、善源寺の7大字となる。
- 1925年(大正14年)4月1日 - 大阪市に編入され、東成区江野町、中宮町、生江町、赤川町、毛馬町、友渕町、城北善源寺町となる。
- 1932年(昭和7年)10月1日 - 分区により、旧村域が旭区の一部となる。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 分区により、旧村域のうち城東貨物線以西が都島区の一部となる。
村政
[編集]- 村長
経済
[編集]産業
[編集]- 農業
『大日本篤農家名鑑』によれば、城北村の篤農家は服部、寺西姓の人物がいた[3]。
- 商工業
金融業を営む寺西[2]、紡織用品株式会社工務長の濱田などがいた[4]。
地主
[編集]地域
[編集]施設
[編集]交通
[編集]道路
[編集]現在は旧村域を阪神高速12号守口線が通過するが、当時は未開通。
鉄道
[編集]旧村域をおおさか東線が通っており、城北公園通駅が設置されているが、当時は前身の城東貨物線および都島信号場を含めて未開業。
出身人物
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『東成郡誌』989 - 1051頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年11月16日閲覧。
- ^ a b c 『日本紳士録 第26版』大阪て之部249頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月28日閲覧。
- ^ 『大日本篤農家名鑑』188頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月28日閲覧。
- ^ 『日本現今人名辞典』は46頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年6月7日閲覧。
- ^ 『思想犯罪輯覧』368 - 369頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年6月8日閲覧。
参考文献
[編集]- 『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1903年。
- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 交詢社編『日本紳士録 第26版』交詢社、1921年。
- 大阪府東成郡編『東成郡誌』大阪府東成郡、1922年。
- 司法省刑事局編『思想犯罪輯覧』司法省刑事局、1928年。
- 『角川日本地名大辞典 27 大阪府』。