尾澤良甫
尾澤 良甫 おざわ りょうほ | |
---|---|
生年月日 | 1826年5月14日 (旧暦文政9年4月8日) |
出生地 | 武蔵国足立郡草加宿 |
没年月日 | 1894年8月1日(68歳没) |
前職 | 尾澤薬舗店主 |
称号 | 銀製黄綬褒章 |
子女 | 尾澤良助(長男) |
親族 | 尾澤豐太郎(甥・娘婿・養子) |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1889年11月 - 1892年10月 1892年11月 - 1894年8月1日 |
尾澤 良甫(おざわ りょうほ、1826年5月14日〈旧暦文政9年4月8日〉- 1894年〈明治27年〉8月1日)は、日本の薬種商、政治家。旧姓は藤城(ふじしろ)。幼字は三次郎(さんじろう)。旧諱は良輔(りょうすけ)。
概要
[編集]武蔵国出身の薬種商である。薬種店を営む尾澤家の婿養子となるが、養父の早逝により辛酸を舐め、非常な苦労を経て家を再興した。1863年(旧暦文久3年)に麻疹が大流行すると、私財を投じて江戸の患者の治療に力を注いだ。調剤だけでなく医術の研鑽も積んでいたことから、江戸府内の民衆から「脈をとらせても当代一」[1]と謳われた。明治維新後も引き続き薬種店を経営するとともに、さまざまな公職を歴任した。これまでの功績により、1892年(明治25年)には明治天皇より聖旨を賜っている。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]1826年(旧暦文政9年4月8日)、武蔵国足立郡草加宿(現・埼玉県草加市)にて生まれた。父である藤城三右衞門は米穀商を営んでおり、その次子として生まれた。幼い頃の字は三次郎と称した。数え12歳にして江戸へ出府し、薬種店に丁稚奉公する。数え16歳より医術を学び研鑽を積んだ。数え19歳にして、先代の尾澤良輔の婿養子となる。
薬種商として
[編集]養父である良輔が亡くなると、その家督を継ぐとともに良輔を襲名した。のちに良甫と名乗った。もともと尾澤家は1796年(寛政8年)に薬種店を創業した家であったが[4]、養父の急逝により家産が傾き、その後は単身で流寓するなど苦労を重ねた。しかし、その間も努力を怠らず、1863年(旧暦文久3年4月)に尾澤家を再興し薬種店を開業した。同年は日本で麻疹が大流行しており、江戸府内でも多数の死者が出ていた。薬種店の前には患者が多数押し寄せる事態となるが、不眠不休で患者の施薬にあたった。特に、薬代すら支払うことができない貧しい患者に対しては、その請求を猶予するなど、私財を投じて麻疹の治療に尽力した。こうした治療方針や高い医療技術が評判を呼び、江戸時代において「尾澤薬舗」は著名な薬種店の一つであった。江戸府内では高く評価され「脈をとらせても当代一」[1]と謳われるほどであった。
明治維新後も、引き続き東京府豊島郡牛込筑土八幡町(現・東京都新宿区筑土八幡町)にて「尾澤薬舗」を営んだ[1]。新しい世となって尾澤薬舗の評価は変わることなく、新たに官営病院御用薬舗の指定を受けている。1875年(明治8年)、東京府豊島郡上宮比町(現・東京都新宿区神楽坂)に「尾澤分店」を新設することになり[1]、良甫の甥の大駒豐太郞にそちらの運営を任せることにした[1]。1877年(明治10年)11月、良甫の長女と豐太郞が結婚することになり[5][6]、良甫は豐太郞と養子縁組をしている[5][7]。豐太郞は薬局を経営するだけでなく、医薬品や医療機器の製造にも乗り出した[1]。東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)に工場を建設し[1]、日本人として初めてエーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリウムの製造に成功した[1]。さらに、当時としては珍しい医薬品も店頭で多数取り扱うようになった[1]。その結果、「神楽坂尾澤薬舖に行けばどんな薬もある」[1]と評されるようになり、東京府の薬局といえば「山の手では尾澤、下町では遠山」[1]と謳われるようになった。なお、1871年(旧暦明治4年2月29日)、良甫にとっての嗣子である初代尾澤良助が生まれた。初代良助は早くも1876年(明治9年)9月に良甫から家督を継承し、のちに薬剤師として筑土八幡町の薬局を継承した。
政治家として
[編集]晩年の良甫はさまざまな公職を歴任するとともに、外交や安全保障といった社会問題にも関心を持つようになった。1887年(明治20年)7月21日、良甫は防海費献納運動に賛同し、日本の沿岸防衛のために私財1,000円を提供したことから、銀製黄綬褒章を授与された[8]。また、1892年(明治25年)10月、栃木県河内郡宇都宮町(現・栃木県宇都宮市)近辺にて陸軍近衛師団、第一師団、第二師団による「陸軍大演習」が行われた際、宮内大臣土方久元より明治天皇の聖旨を伝達され、宴席に招かれている。
さらに、東京15区の各区において議会が開設されることになると、周囲に推され牛込区会の議員に就任した[9]。1889年11月から1892年10月までの第1期区会において議員を務めた[9]。1892年11月からの第2期区会においても、引き続き議員として続投した[10]。1894年(明治27年)8月1日、妻子と団欒に興じている中、日清戦争の勃発を知り大いに悲憤慷慨したところ突然倒れ、そのまま亡くなった。
顕彰
[編集]没後、染井霊園に良甫の業績を顕彰する『尾澤君之碑』が建立された[11]。
家族・親族
[編集]良甫の甥である尾澤豐太郞は、大駒平五郞の二男として生まれたが[13][14]、良甫の長女と結婚し[5]、良甫と養子縁組もしているため[5]、豐太郞は良甫の娘婿、および、養子でもある[5]。その後、豐太郞は良甫の家から分家しており[5]、良甫の家督は、良甫の長男である初代尾澤良助が継承している[13]。初代良助も薬剤師であり[13]、東京府東京市牛込区筑土八幡町の尾澤薬舗を継承し[13]、尾澤総本店と称していた[13]。総本店も分店と同様に興隆を極めており、明治40年代には初代良助と豐太郞の両名が、直接国税の多額納税者としてそれぞれ名を連ねていた[13]。初代良助の長男に尾澤良靖がいる[13]。良靖は1907年(明治40年)8月に生まれ、1921年(大正10年)に初代良助から家督を相続すると、二代目良助を襲名した。二代目良助は東京薬学専門学校を卒業して薬剤師となり、尾澤総本店を継承していた。岡山医学専門学校教授などを務めた医学者の舟岡英之助は[註釈 1]、舟岡周介の長男であり、良甫の二女と結婚している。
また、豐太郞の長男の尾澤良太郞も薬剤師である[5]。良太郞は千葉県の政治家である重城敬の長女と結婚し[15]、豐太郞の家督を継承した。良太郞は、合名会社である尾澤商店の代表に就くとともに、株式会社である東京医薬の社長に就任した。良太郞の長男に盛がいる[14]。豐太郞の二男の尾澤豐明と三男の尾澤豐三郞は[14]、それぞれ分家している[15]。また、豐太郞の四男に尾澤豐四郎がいる[14]。豐太郞の長女の夫である尾澤洪は[5]、片岡義道の三男であるが結婚を機に豐太郞と養子縁組をしたうえで[13]、のちに分家している[13][5]。洪もヘアカラーリング剤の製造に関する特許を持つなど[16][17]、医薬品や化粧品に関する事業に従事した。洪の長男に尾澤良彦がいる[13]。豐太郞の二女の夫である尾澤改作は[14]、根岸啓作の三男であるが結婚を機に豐太郞と養子縁組をし[14]、のちに分家している。改作も薬剤師として薬局を経営した。
- 藤城三右衞門(父) - 実業家
- 尾澤良輔(岳父・養父) - 実業家
- 初代尾澤良助(長男) - 薬剤師
- 尾澤豐太郞(甥・娘婿・養子) - 薬剤師
- 舟岡英之助(娘婿) - 医学者
- 尾澤良太郞(孫) - 薬剤師[5]
- 尾澤豐明(孫) - 実業家[15]
- 尾澤豐三郞(孫) - 実業家[15]
- 尾澤豐四郞(孫) - 実業家
- 二代目尾澤良助(孫) - 薬剤師
- 尾澤洪(義孫・養孫) - 薬剤師[5]
- 尾澤改作(義孫・養孫) - 薬剤師
- 舟岡省吾(養孫) - 医学者
- 尾澤良彦(曾孫) - 実業家
- 尾澤盛(曾孫) - 実業家
系譜
[編集]尾澤豐太郞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤城三右衞門 | 尾澤良甫 | 豐太郞の長女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
良甫の長女 | 尾澤良彦 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤良輔 | 良輔の娘 | 尾澤洪 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤良太郞 | 尾澤盛 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤豐明 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
豐太郞の二女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤改作 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤豐三郞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤豐四郞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
良甫の二女 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
舟岡省吾 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
舟岡英之助 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
尾澤良助 | 尾澤良助 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
略歴
[編集]栄典
[編集]脚注
[編集]註釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 「神楽坂4丁目・6丁目――尾澤薬局」『かぐらむら: 今月の特集 : 記憶の中の神楽坂』サザンカンパニー。
- ^ 尾澤良輔『舶来御藥種製煉水藥類幷ニ丸散之方劑製〻貯有ル』。
- ^ 『截瘧強壯丸・治方丸おりの邪氣拂薬』。
- ^ 粋なまちづくり倶楽部監修『神楽坂を良く知る教科書――神楽坂検定初級』2015年11月、6頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 內尾直二・礒又四郞編輯『人事興信錄』2版、人事興信所、1908年、300頁。
- ^ 內尾直二編輯『人事興信錄』3版、人事興信所、1911年、を49頁。
- ^ 內尾直二編輯『人事興信錄』4版、人事興信所・人事興信所大阪支局、1915年、を28頁。
- ^ 『官報』 第1219号「彙報」、2019年10月4日閲覧。
- ^ a b c 『牛込區史』東京市牛込區役所、1930年、215頁。
- ^ a b 『牛込區史』東京市牛込區役所、1930年、216頁。
- ^ 岸田吟香篆額、森斌撰文、中根半嶺書、關安兵衛鐫『尾澤君之碑』1894年11月。
- ^ 吉田保次郎編輯『東京名家繁昌圖錄』初編、吉田保次郎、1883年、60頁。
- ^ a b c d e f g h i j 內尾直二編輯『人事興信錄』3版、人事興信所、1911年、を49頁。
- ^ a b c d e f 內尾直二編輯『人事興信錄』4版、人事興信所・人事興信所大阪支局、1915年、を28頁。
- ^ a b c d 内尾直二編輯『人事興信録』6版、人事興信所・人事興信所大阪支局、1921年、を35頁。
- ^ 特許番号23782号。
- ^ 橋本小百合・庵雅美編『発明に見る日本の生活文化史』化粧品シリーズ2巻、ネオテクノロジー、2015年、137頁。