池田博教

 
池田博教
時代 江戸時代後期
生誕 安永元年7月21日1772年8月19日
死没 文化3年8月20日1806年10月1日
別名 震之丞、順之丞、右膳、隼人(通称)
戒名 宝信院前布護署機外領宗居士
墓所 岡山県岡山市中区小橋町国清寺
主君 池田治政斉政
備前岡山藩
氏族 池田氏(長政流)
父母 父:池田博道、母:照子 (伊木忠知の娘)
兄弟 真子(乾長徳室)、博教伊木忠真永見國誠、岩代 (土倉一静室)
婚約者:小弁 - 池田政喬の娘、正室:國子 (松平頼裕の娘)
方智、静(佐々光宣室)、博忠
テンプレートを表示

池田 博教(いけだ ひろのり)は、江戸時代後期の岡山藩家老備前国建部領主。建部池田家(森寺池田家)10代当主。

家系

[編集]

建部池田家(森寺池田家)は池田恒興の育ての親の森寺秀勝に始まる家で、恒興の三男池田長吉の三男長政が実兄の3代森寺長貞の養子となって池田氏を称し、備前建部1万4000石(6代宗春以降は1万石)を領した。代々岡山藩家老。[1]明治39年(1906年)博愛が男爵に叙され華族となる。庶子は森寺氏や森氏を称す。

略歴

[編集]

安永元年(1772年)7月21日、岡山藩家老池田博道の嫡男として備前岡山内山下本邸に誕生。母は岡山藩筆頭家老伊木忠知の娘照子。

天明4年(1784年)10月、火消方助。天明6年(1786年)3月1日、初めて藩主治政に拝謁する。寛政2年(1790年)2月22日、元服して「博教」と名乗る。

寛政7年(1795年)3月12日、火消代番助。享和3年(1803年)8月18日、父博道が病のため隠居し、家督を相続。岡山藩家老、備前建部1万石の領主となり、家老に任命され、通称を「右膳」と名乗る。同日、火消代番。[2]

文化2年(1805年)6月、藩主治政の命で「隼人」と名乗る。

文化3年(1806年)8月20日に岡山内山下本邸で急死した。嫡子弁之進(博忠)が幼いことから、弟(実は庶長子)の方智が中継養子(看抱、看抱養子とも言う。家督を継ぐべき子供が幼い場合に、親族が成長するまで当主を代行すること)として家督を継いだ。享年35。岡山小橋町國清寺に葬られた。

系譜

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ 『岡山縣御津郡誌』
  2. ^ 男爵池田博愛系譜』

参考文献

[編集]
先代
池田博道
建部池田家(森寺池田家)
10代
1803年 - 1806年
次代
池田方智