王永泉
王 永泉 | |
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![]() 『最新支那要人伝』(1941年) | |
プロフィール | |
出生: | 1880年(清光緒6年)[1] |
死去: | 1942年(民国31年)![]() |
出身地: | ![]() |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 王永泉 |
簡体字: | 王永泉 |
拼音: | Wáng Yŏngquán |
ラテン字: | Wang Yung-ch'uan |
和名表記: | おう えいせん |
発音転記: | ワン ヨンチュエン |
王 永泉(おう えいせん)は中華民国の軍人。奉天派の軍人。後に中華民国臨時政府に参加した。字は伯川。祖籍は江蘇省。
事績
[編集]1902年(光緒28年)、日本に留学し、成城学校を経て陸軍士官学校第4期工兵科で学ぶ[2]。卒業して帰国後、湖北陸軍特別学校工兵教官。新建陸軍第8鎮参議に異動した李克果の後任で工兵第8営管帯(大隊長)となる[3]。武昌起義当時、永平秋操陪観に赴いており、督隊官の阮栄発に管帯代理を任せていたため難を逃れた[4]。中華民国成立後、北京政府陸軍部工兵技正、湖南都督署参謀長を歴任した。1917年(民国6年)、奉天陸軍司令部副官長兼補充旅旅長に任ぜられる。翌1918年(民国7年)、第24混成旅旅長に任命され、福建省に移駐した[5][6]。
1922年(民国11年)10月、王永泉は安徽派の徐樹錚と結んで福建に軍政制置府を設立し、福建総撫兼省長を自称した。しかし王・徐による福建省内の完全な統制はならず、まもなく制置府は廃止される。翌1923年(民国12年)3月、直隷派の孫伝芳が福建督理となると、王は福建軍務幇弁の地位に転じた。翌月、建安護軍使を兼ね、5月、同護軍使の廃止と共に興泉護軍使に移る。しかし翌1924年(民国13年)3月、孫との権力闘争に敗北し、王は下野に追い込まれてしまう[5][6]。
1937年(民国26年)12月、中華民国臨時政府が成立すると、王永泉はこれに参加する。翌1938年(民国27年)1月1日、王は治安部次長に任ぜられ、部長の斉燮元を補佐した[6][7]。1940年(民国29年)3月に臨時政府が汪兆銘政権に合流するまで、王は次長の地位にあり続けたが、汪兆銘政権では特に要職に就いてない[8]。1942年(民国31年)、北京特別市にて病没。享年63[5]。
注
[編集]- ^ 徐主編(2007)、85頁による。東亜問題調査会編(1941)、10頁によると「1876年生」。
- ^ 東亜問題調査会編(1941)、10頁による。徐主編(2007)、85頁は、「第3期工兵科」とする。
- ^ 丘权政、杜春和 (1981). 辛亥革命史料选辑 上巻. 湖南人民出版社. p. 372
- ^ 丘权政、杜春和 (1981). 辛亥革命史料选辑 上巻. 湖南人民出版社. p. 375
- ^ a b c 徐主編(2007)、85頁。
- ^ a b c 東亜問題調査会編(1941)、10頁。
- ^ 臨時政府令、民国27年1月1日(『政府公報』第1号、臨時政府行政委員会公報処、民国27年1月17日、15頁)。
- ^ 東亜問題調査会編(1941)、10頁によると、王永泉は華北政務委員会治安総署署長に就任した、としている。しかし劉主編(1995)、1056頁によると、汪兆銘政権発足時に治安総署署長に就任した人物を杜錫鈞としている。ここでは後者に従う。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。