開封府

河南省の開封府の位置(1820年)

開封府(かいほうふ)は、中国にかつて存在した五代十国時代から中華民国の初年にかけて、現在の河南省開封市一帯に設置された。

概要

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907年開平元年)、朱全忠後梁により汴州が「開封府」に昇格し、後梁東都とされた[1]。はじめ開封府は開封浚儀陳留雍丘封丘尉氏の6県を管轄した。鄭州中牟陽武滑州酸棗長垣許州扶溝鄢陵宋州襄邑曹州戴邑陳州太康の9県が開封府に編入された[2]

923年同光元年)、後唐が後梁を滅ぼすと、開封府は「汴州」に降格し、宣武軍節度使の管轄にもどされた[3]

938年天福3年)、後晋により「汴州」は東京に昇格し、「開封府」が置かれた[4]

北宋のとき、開封府は、「東京開封府」となった。東京開封府は京畿路に属し、開封・祥符・陳留・雍丘・封丘・尉氏・中牟・陽武・延津・長垣・東明・扶溝・鄢陵・考城・太康・咸平の16県を管轄した[5]

のとき、開封府は南京路に属し、開封・祥符・陽武・通許・太康・中牟・・鄢陵・尉氏・扶溝・陳留・延津・洧川・長垣・封丘の15県と延嘉・陳橋・八角・郭橋・崔橋・圃田・陽武・万勝・白沙・圉城・馬欄橋・朱家曲・宋楼・建雄・義店管轄した[6]

1214年貞祐2年)、モンゴル帝国の圧迫を受けて、金は「南京開封府」に遷都した[7]

1288年至元25年)、により南京路が「汴梁路」に改称された。汴梁路は河南江北等処行中書省に属し、録事司と開封・祥符・中牟・原武・鄢陵・滎沢・封丘・扶溝・陽武・杞・延津・蘭陽・通許・尉氏・太康・洧川・陳留の17県と鄭州に属する管城滎陽汜水河陰の4県と許州に属する長社長葛郾城襄城臨潁の5県と陳州に属する宛丘商水西華南頓項城の5県と鈞州に属する陽翟新鄭の3県と睢州に属する襄邑・考城・儀封柘城の4県の合わせて1司17県5州州領21県を管轄した[8]

1368年洪武元年)、により汴梁路は「開封府」と改められた。開封府は河南省に属し、祥符・陳留・杞・通許・太康・尉氏・洧川・鄢陵・扶溝・中牟・陽武・原武・封丘・延津・蘭陽・儀封・新鄭の17県と陳州に属する商水・西華・項城沈丘の4県と許州に属する・臨潁・襄城・郾城・長葛の4県と禹州に属する密県と鄭州に属する滎陽・滎沢・河陰・汜水の4県の合わせて4州30県を管轄した[9]

のとき、開封府は河南省に属し、祥符・陳留・杞・通許・尉氏・洧川・鄢陵・中牟・蘭封・新鄭・密・禹州の1州11県を管轄した[10]

1913年中華民国により開封府は廃止された。

脚注

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  1. ^ 旧五代史』梁書太祖紀三
  2. ^ 『旧五代史』郡県志
  3. ^ 『旧五代史』唐書荘宗紀四
  4. ^ 『旧五代史』晋書高祖紀
  5. ^ 宋史』地理志一
  6. ^ 金史』地理志中
  7. ^ 『金史』宣宗紀上
  8. ^ 元史』地理志二
  9. ^ 明史』地理志三
  10. ^ 清史稿』地理志九

関連項目

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