戸田忠行
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 大正時代 |
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生誕 | 弘化4年10月2日(1847年11月9日) |
死没 | 大正7年(1918年)12月31日[1] |
改名 | 七之助(幼名)、忠行 |
墓所 | 東京都新宿区牛込の松源寺 |
官位 | 従五位下、長門守、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 陸軍奉行並(大番頭) |
藩 | 下野国足利藩主 |
氏族 | 戸田氏 |
父母 | 父:戸田忠禄、養父:戸田忠文 |
妻 | 先妻:松前崇広の長女・武子 後妻:亀田謙叔の四女・時子 |
子 | 忠雄(長男)、鮭、秋、謀子、忠四郎、五郎 |
戸田 忠行(とだ ただゆき)は、下野足利藩の第8代(最後)の藩主。宇都宮藩戸田家分家8代。
生涯
[編集]弘化4年(1847年)10月2日、第6代藩主・戸田忠禄の四男として生まれる。父は忠行が生まれる前の9月20日に死去したため、戸田家の家督は父の婿養子であった忠文が継いだ。安政3年(1856年)に忠文が死去したため、忠行はその養子となって家督を継ぐ。文久2年(1862年)12月16日に従五位下・長門守に叙位・任官する。
文久3年(1863年)6月から職制改革などを主とした藩政改革を行なう。慶応3年(1867年)10月に陸軍奉行並に任じられた。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では幕府・新政府の双方に対して曖昧な態度を取ったが、最終的に新政府に恭順した。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により足利藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官された。
その後は東京へ移り、神田表の神保町に住んだ。1879年(明治12年)に海軍裁判所御用掛・海軍御用掛に任じられる。1884年(明治17年)の華族令で子爵となった。1892年(明治25年)に本郷区駒込の東片町に移住したが直後に火事で家を焼失、本郷区向岡の弥生町に移った。1897年(明治30年)7月10日に貴族院議員となり[2]、1904年(明治37年)7月9日まで在任[1]。1906年(明治39年)に勲四等を受賞する。同年5月5日、貴族院子爵議員補欠選挙で再選され、1911年(明治44年)7月9日まで在任した[1]。
1917年(大正6年)8月22日に隠居する[3]。大正7年(1918年)12月31日に死去した。享年72。
家族
[編集]父母
妻
子女
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 | 子爵 (足利)戸田家初代 1884年 - 1917年 | 次代 戸田忠雄 |