ジークフリート・ストール
ジークフリート・ストール | |
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基本情報 | |
国籍 | イタリア |
出身地 | 同・リミニ |
生年月日 | 1952年10月10日(72歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1981 |
所属チーム | '81 アロウズ |
出走回数 | 13 (9スタート) |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1981年アメリカ西GP |
最終戦 | 1981年イタリアGP |
ジークフリート・ストール(Siegfried Stohr, 1952年10月10日 - )は、イタリア・リミニ出身の元レーシングドライバー。日本語メディアでの姓の表記は「ストール」が多いが、ドイツ系の姓で(父がドイツ人)、発音は「シュトーア」。1978年のイタリアF3チャンピオン。精神分析医の資格を持つ。
経歴
[編集]1978年にイタリアF3のチャンピオンを獲得後、トールマンF2で活躍する。その後、スポンサー持込でアロウズからF1デビューを果たす。
開幕戦は予選落ちを喫したため第2戦からのデビューとなったが、第3戦アルゼンチンGPでは9位に入ったものの、完走はこのレースを含む3戦にとどまっている。特に予選では、チームメイトのリカルド・パトレーゼに対し、10番程度後方の成績しか残せず、また全戦で決勝に出場していたパトレーゼに対して、ストールは開幕戦を含む4度にわたって予選落ちを喫するなど、大きく見劣りする結果となった(パトレーゼは第2戦・第4戦では表彰台にも上っている)。
第5戦のベルギーGPではスタート時にエンジンストールを起こしたパトレーゼのマシンに追突し、パトレーゼのマシンの作業に当たっていたメカニック2人を挟む事故を起こしている。
その後、第12戦オランダGPではポイント獲得寸前の7位に入ったが、続く地元イタリアGPで4度目の予選落ちを喫すると、レースシートをジャック・ヴィルヌーヴSr.に交代させられ、F1界から姿を消した(交代したヴィルヌーヴSr.も全戦で予選落ちを喫している)。
現在はレーシングスクールを経営している。
レース戦績
[編集]ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権
[編集]年 | チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 順位 | ポイント |
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1979年 | トリヴェラート・レーシング | SIL Ret | HOC 9 | THR Ret | NÜR 4 | VLL 2 | MUG 11 | PAU 2 | HOC Ret | ZAN 7 | PER Ret | MIS 5 | DON Ret | 8位 | 17 |
1980年 | Docking Spitzley Ltd | THR | HOC | NÜR 4 | VLL 5 | PAU 2 | SIL 18 | ZOL 3 | MUG 6 | ZAN Ret | PER 1 | MIS 13 | HOC 3 | 4位 | 29 |
F1
[編集]年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | WDC | ポイント |
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1981年 | アロウズ | A3 | USW DNQ | BRA Ret | ARG 9 | SMR DNQ | BEL Ret | MON Ret | ESP Ret | FRA DNQ | GBR Ret | GER 12 | AUT Ret | NED 7 | ITA DNQ | CAN | CPL | NC (24位) | 0 |
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